協会の計画に対する反対意見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 10:01 UTC 版)
「アメリカ植民地協会」の記事における「協会の計画に対する反対意見」の解説
この運動が大々的な成功とまではならなかった理由は3つあり、1つは黒人や奴隷制度廃止論者から上がった反対であり、次にそれだけ多くの人々を動かす膨大な仕事(南北戦争後にはアメリカに400万人の自由黒人がいた)、最後はそれだけ多くの黒人新参者を喜んで受け入れる場所が見つからなかったことだった。 黒人のアメリカ人は移民の問題で2つに別れた。何人かの黒人教会指導者は協会支持の立場を取った。1817年1月、バージニア州リッチモンドの自由黒人は移民に賛成する公の声明を出した。しかし、フィラデルフィア、ニューヨークおよびボストンのような北部社会の自由黒人大半は移民に反対して結束し、アメリカ合衆国内から自由黒人を排除するための策略だと見なした。多くは協会員を人種差別の国外追放論者だと非難し、その目的は黒人を助けることではなく、自由黒人の社会を排除することで奴隷制を強化することだと論じた。彼等はアメリカに留まった方が良いと考え、奴隷制に反対しアメリカ合衆国内市民として完全な権利を求めて戦う方が良いと考えた。当時協会設立に関わった自由黒人で長老派教会牧師レミュエル・ヘインズは神意による計画は最終的に奴隷制を打ち破り、人種間の平等という調和のある差別撤廃に導くことだと熱烈に主張した。1817年、フィラデルフィアで3,000人以上の黒人が集まり、植民地化計画に反対する抗議を行った。 これと同時に南部の多くの奴隷所有者はこの計画をその奴隷経済に対する攻撃だと非難した。
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