協会の設立と参加者、理事
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「ミュンヘン新芸術家協会」の記事における「協会の設立と参加者、理事」の解説
1909年1月22日、協会の設立書が起草された。協会設立当初から参加したのは以下の芸術家であった。 ヴラディミル・フォン・ベヒテイェフ (Wladimir von Bechtejeff, 1878 - 1971) セオドア・アール・バトラー (1861-1936) アドルフ・エルプスレー (1881 - 1947) レオンハルト・フランク (1882-1961) -文学者 ドクトル・グスタフ・フライターク (Dr. Gustav Freytag) トーマス・フォン・ハルトマン (Thomas von Hartmann, 1885 - 1956) アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー (1865- 1941) ヴァシリー・カンディンスキー(1866-1944) アレクサンデル・カノルト (1881 - 1939) M. カノルト=ツェレナー (M. Kanoldt-Zerener) ヨハンナ・カノルト (Johanna Kanoldt) アルフレート・クビン (Alfred Kubin, 1877 - 1959) ガブリエレ・ミュンター シャルル・パルミー (Charles Palmié, 1863 - 1911) フーゴ・シンメル (Hugo Schimmel) ハインリヒ・シュナーベル (Dr. Heinrich Schnabel) - 芸術史家 マリアンネ・フォン・ヴェレフキン (1860 - 1938) オスカー・ヴィッテンシュタイン (1880 - 1918) 同年の内に、パウル・バウム (Paul Baum, 1859 - 1932)、エルマ・ボッシ(Erma Bossi 1882/85 - 1952)、ピエール・ジリウー(Pierre Girieud, 1876 - 1948)、カール・ホーファー (Karl Hofer, 1878 - 1955)、モイセイ・コーガン(Moissey Kogan,1879 - 1943) と舞踏家のアレクサンデル・ザッハロフ (Alexander Sacharoff, 1886 - 1963) が加わった。一方同年の内にバウム、バトラー、フランク、カノルト・ツェレナー、パルミー、シンメルの6人のメンバーが協会を去った。 役員も決められた。カンディンスキーが理事となり、ヤウレンスキーが副理事に、理事代行にヨハンナ・カノルトが、書記長にドクトル・ヴィッテンシュタインが選ばれ、会計はヨハンナ・カノルトが兼任した。 カンディンスキーはミュンヘン新芸術家協会の会則にみずから「補遺、4平方メートル規定」の章段を加えている。これは、のちの1911年に彼に協会を去る契機をもたらすこととなる。補遺規定の内容は次のようなものであった。「すべて正会員は二作品までは審査会を通すことなしに出展することができる。ただしこれら[二点の絵画作品]の合計サイズが4平方メートル(2メートル掛ける2メートル)を超えない場合に限る。」 5月10日、ミュンヘン新芸術家協会は正式にミュンヘン市の私的協会登記簿に登録された。 1910年、エルプスレーがミュンヘン新芸術家協会の書記に任命された。 ミュンヘン新芸術家協会内の保守勢力の間では、協会への不満が広がっていった。どんどん抽象化するカンディンスキーの絵画作品に対して怒り、彼に対して「現実的で、わかりやすい作品」の制作を求めたのだった。これに対してカンディンスキーは1911年1月、協会トップの座を降りることで応えた。エルプスレーが彼の後任となった。同じ1月中にフランツ・マルクが協会に加入し、第3理事となった。同年2月4日の総会において、ドクトル・ヴィッテンシュタインが副理事に選ばれ、アレクサンデル・カノルトが書記長に、ドクトル・シュナーベルが副書記長に、ヨハンナ・カノルトが会計に再任された。
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