北海道炭礦鉄道へ入社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
桃介が帰国する直前の1889年11月、北海道炭礦鉄道(後の北海道炭礦汽船、通称「北炭」)が設立された。設立の中心となったのは堀基で、福澤諭吉も設立に助力していた。この北炭に、桃介は諭吉の口添えもあって1889年12月31日付で入社する。しばらく東京にて鉄道の事務見習いをした後、1890年4月北海道へ赴任し、夫婦で札幌市へと移り住んだ。 北海道での生活は長くなく、最初の冬を前に房が長男駒吉(1891年1月誕生)を妊娠したので10月に夫婦そろって東京へ戻る。北海道では運輸の仕事に従事していたが、東京に戻った丁度その頃、北炭では東京に支店を構えてシンガポールなどへと石炭を輸出することになったため、外国語ができるということで桃介はそのまま東京に留まり、石炭販売担当に転じた。こうして東京にて石炭販売の主任となった桃介は、名古屋にて愛知石炭商会を経営していた下出民義らと取引をするようになった。 1893年(明治26年)4月上旬、北炭社内の大改革により免職となるが、5月25日に専務理事として井上角五郎が入社した後、6月1日付で支配人に準ずる待遇の重役付雇員として会社に復帰した。井上によると、更迭された初代社長の堀基に代わって新社長となった高島嘉右衛門が経営に易断(高島易断)を持ち込み、社員の免職を占ったところ、桃介は免職と出たため実際に免職されたのだという。再入社後の桃介は井上の下で社内改革に従事した。
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