北海道渡道から晩年
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明治24年(1891年)7月には北海道の小樽へ移り、実業家として活動を行う。4月には小樽初の新聞である『北門新報』を創刊して主筆を務める。『北門新報』の社主は金子元三郎で、金子は日本へ亡命していた朝鮮人革命家・金玉均を介して兆民を紹介されたとする説もある。 同年12月15日には衆議院が解散され第2回衆議院議員総選挙となり、兆民は12月27日に東京へ向かうと、仏学塾出身で長野県五区から立候補した小山久之助・長野県三区から立候補した堀内賢郎を応援するため長野県まで赴いている。なお、第2回総選挙では小山・堀内両人とも落選している。明治25年(1892年)1月17日には母の柳が死去する。 明治25年に『北門新報』は札幌へ進出しているが、兆民は『北門新報』を退社すると高知へ赴く。明治26年(1893年)に兆民は札幌で「高知屋」を開業する。 さらに兆民は材木業を営む「北海道山林組」を設立する。また、鉄道事業にも熱心で、明治27年(1894年)の常野鉄道をはじめ、毛武鉄道など数多くの発起人となっている 。明治30年(1897年)には中野清潔会社を起こす。 明治31年(1898年)には群馬の遊廓再設置運動など、虚業的とも評される数々の事業や政治的活動を手がけようとするが、いずれも失敗している。12月には国民党を結成して政界復帰を望む。 国民同盟会の会議に出席するが、大阪で病床に臥せ、満54歳で死去、死因は喉頭癌。葬儀は宗教上の儀礼を排した告別式として行われ、東京都港区の青山墓地に葬られた。
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