北海道渡道から晩年とは? わかりやすく解説

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北海道渡道から晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 08:07 UTC 版)

中江兆民」の記事における「北海道渡道から晩年」の解説

明治24年1891年7月には北海道小樽移り実業家として活動を行う。4月には小樽初の新聞である『北門新報』を創刊して主筆務める。『北門新報』の社主金子元三郎で、金子日本へ亡命していた朝鮮人革命家金玉均を介して兆民紹介されたとする説もある。 同年12月15日には衆議院解散され第2回衆議院議員総選挙となり、兆民12月27日東京へ向かうと、仏学塾出身長野県五区から立候補した小山久之助長野県三区から立候補した堀内賢郎応援するため長野県まで赴いている。なお、第2回総選挙では小山堀内両人とも落選している。明治25年1892年1月17日には母の死去する明治25年に『北門新報』は札幌進出しているが、兆民は『北門新報』を退社する高知赴く明治26年1893年)に兆民札幌で「高知屋」を開業する。 さらに兆民材木業を営む「北海道山林組」を設立するまた、鉄道事業にも熱心で、明治27年1894年)の常野鉄道をはじめ、毛武鉄道など数多く発起人となっている 。明治30年1897年)には中野清会社起こす明治31年1898年)には群馬遊廓設置運動など、虚業的とも評される数々事業政治的活動を手がけようとするが、いずれも失敗している。12月には国民党結成して政界復帰を望む。 国民同盟会会議出席するが、大阪病床臥せ、満54歳死去死因喉頭癌葬儀宗教上の儀礼排し告別式として行われ東京都港区青山墓地葬られた。

※この「北海道渡道から晩年」の解説は、「中江兆民」の解説の一部です。
「北海道渡道から晩年」を含む「中江兆民」の記事については、「中江兆民」の概要を参照ください。

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