北海道へ
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明治5年1月7日(1872年2月15日)、黒田清隆に取り立てられ、開拓使八等出仕となり ホーレス・ケプロンなどの外国人顧問の通訳を担当した。同年8月25日(9月27日)大主典に就任。1875年2月4日、亀田郡七重村(現七飯町)勤務となり七重開墾場の経営を担当。1877年1月23日、開拓権少書記官に就任。1878年7月13日、七重勧業試験場長に発令され、アメリカでの学びを実践し、多くの伝習生を育成した。以後、兼農業仮博覧会監督、兼函館支庁民事課勧業掛、開拓少書記官、兼第二回函館農業仮博覧会監督などを歴任。1882年2月8日、開拓使が廃止され、同日設置された根室県の県令に就任。農水産業の振興と改良に努め、特にジャガイモの栽培を奨励し、北海道にジャガイモを普及させ、「いも判官」と呼ばれた。 1886年1月26日、根室県が廃止され北海道庁の設置に伴い同庁理事官に発令され、同年2月16日、土木課長に就任。1887年から1889年までドイツ、アメリカに出張し殖民区画制度の調査・研究を行う。このとき、帰国後、1889年3月12日、道庁第二部長に就任し、五町歩区画制度を立案実施して拓殖を推進した。1890年3月4日、第二部長を退任。
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