勲旧派と士林派の対立と士禍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)
「李氏朝鮮」の記事における「勲旧派と士林派の対立と士禍」の解説
世祖の死後、睿宗が即位したが19歳で逝去。1469年に13歳の幼い王成宗が即位し、貞熹大妃が垂簾聴政を行なったが国政は不安定になった。1470年、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、成宗の親政時代になると士林派勢力を取り入れるようになった。これに脅威を感じた勲旧派や外戚が士林派勢力との対立することとなったが、成宗の治世(1469年 - 1494年)では政治的には一応の安定を見た。このとき、成宗の母仁粋大妃と2番目の王妃斉献王后(廃妃尹氏)が対立し、廃妃尹氏は1479年に廃位され1482年に賜死した。 成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、加えて勲旧勢力による諫言などもあり、それが1498年の最初の士禍、戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直(朝鮮語版)(1431年 - 1492年)の弟子を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は、生母廃妃尹氏の死の経緯を知り、1504年の甲子士禍で士林勢力と勲旧勢力の無差別大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていたが、1506年、朴元宗・成希顔(朝鮮語版)・柳順汀(朝鮮語版)らのクーデター中宗反正(ko)により廃位、追放された。同年、朴元宗の姪にあたる章敬王后が中宗の後宮に入り、大尹派が形成されていく。 次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中の1510年に、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が起きている。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。1545年に明宗が12歳で即位すると、文定王后が垂簾聴政を行なったが、同じ尹氏の仁宗の伯父・尹任(朝鮮語版)の率いる大尹派から批判を受けると、同年に文定王后の次弟・尹元衡の率いる小尹派による乙巳士禍で粛正された。この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。
※この「勲旧派と士林派の対立と士禍」の解説は、「李氏朝鮮」の解説の一部です。
「勲旧派と士林派の対立と士禍」を含む「李氏朝鮮」の記事については、「李氏朝鮮」の概要を参照ください。
- 勲旧派と士林派の対立と士禍のページへのリンク