勝鬨丸として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:17 UTC 版)
上海での仮修理の後、プレジデント・ハリソンは勝鬨丸と命名され、3月5日に上海で日本郵船に引き渡された。また、この時民需用が建前の船舶運営会使用船となり、軍の徴用を受けないまま軍事輸送に従事する陸軍配当船に指定され、陸軍配当船番号5025番が付与された。引き渡されたとき、勝鬨丸にはいまだ旧来の乗組員が残っており、郵船側の乗組員に対して協力を惜しまなかったが、旧来の乗組員は後日、日本海軍の将兵に連行されていった。その後、勝鬨丸は日本に回航され、大阪鐵工所桜島工場で改装工事が行われた。この改装で三等船室が新たに設けられた。7月28日工事が完了し、翌29日から台湾航路に就航した。勝鬨丸の台湾航路就航は華々しく報じられ、米、砂糖を満載して清水港に帰港した際には、見物人が勝鬨丸見たさで清水港に押し寄せたほどだった。 しかし、この航海では十分に清掃していたはずのタンクに汚水が残っており、そのため乗組員に下痢患者が大量に発生し、うち3人は不運にも死亡してしまった。これ以降、勝鬨丸にはいくつかのトラブルが発生した。それはまるで、「日本に使用される事をきらっているかのような」トラブルの連続であった。9月16日未明、勝鬨丸は2回目の航海で澎湖諸島目斗嶼近海を無灯火で航行中に、262船団を護衛して門司に向かいつつあった駆逐艦文月と衝突。勝鬨丸は左舷部に破口が出来、文月は艦首を大破して護衛任務を打ち切った。勝鬨丸は10月24日付で船舶運営会に貸下げられ、修理の上航路に復帰したが、1943年2月には瀬戸内海を夜間航行中座礁。日立造船因島工場で修理された。他にも、船内構造が日本で建造された船とは異なっていたが故のトラブルも多発した。そして、勝鬨丸に終末の時がやってきた。
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