加賀一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 09:59 UTC 版)
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選手情報 | ||||||||||||||||||
フルネーム | 加賀 一郎 | |||||||||||||||||
ラテン文字 | Ichiro Kaga | |||||||||||||||||
国籍 | ![]() |
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競技 | トラック競技 (短距離走) |
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種目 | 100m・200m | |||||||||||||||||
所属 | 明治大学 常磐生命保険 |
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生年月日 | 1898年 | |||||||||||||||||
出身地 | 大阪府 | |||||||||||||||||
没年月日 | 1946年11月5日 | |||||||||||||||||
身長 | 176 cm(5尺8寸[1]) | |||||||||||||||||
オリンピック | 1920 | |||||||||||||||||
地域大会決勝 | 極東選手権(1921・上海) 極東選手権(1925・マニラ) |
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国内大会決勝 | 日本陸上競技選手権大会 | |||||||||||||||||
自己ベスト | ||||||||||||||||||
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加賀 一郎(かが いちろう、1898年(明治31年)[注釈 1] - 1946年(昭和21年)11月5日[6])は、日本の陸上競技選手(短距離走)、陸上競技指導者。
父は衆議院議員も務めた加賀卯之吉で[3]、松竹常務を務めた加賀二郎は実弟[7]、女優の加賀まりこは姪(弟の娘)にあたる[8]。
来歴
加賀卯之吉の長男として生まれる[3]。生母は大阪府人・山田ひさよで(庶子にあたる)[3]、大阪府で生まれたとされる[9]。
兵庫県立伊丹中学校の創立30周年記念誌(1932年)には「本校運動部の生める選手」とある[10]。1923年の雑誌の読者質問欄への回答にも出身中学は「伊丹中」と記載されている[11]。公式記録に残っていない旧制伊丹中学校野球部の選手を取り上げた神戸新聞の記事では、加賀は野球部での先輩だったと記された[12]。一方、1934年に刊行された弓館小鰐の『スポーツ人国記』という書籍(ポプラ書房)には、「堺中学時代野球の選手であった」という異なる記述がある[13]。
明治大学進学後に陸上競技の短距離走に転向したとされ[12][13]、在学中の1920年アントワープオリンピックでは100メートル競走、200メートル競走に出場している[14][2]。
1921年(大正10年)の日本陸上競技選手権大会の200メートル競走では、23秒6で優勝している[15]。同年の第5回極東選手権競技大会(上海市)では100ヤード競走・220ヤード競走の2種目で3位となった。
1922年(大正11年)、明治大学商科を卒業した[16]。大学卒業後の1923年には志願兵として歩兵第1連隊に入営していたと当時の文献に記されている[17][18][注釈 2]。1925年の第7回極東選手権競技大会(マニラ)では2大会ぶりに代表選手となったが、100メートル競走で4位に終わり入賞はならなかった[19]。当時の新聞によると、元来は代表ではない立場で大会視察のために選手団と行動をともにしていたところ、マニラ到着前の上海市での練習に加わって好成績を示したことからコーチ会議によって代表に加えられたとされる[20]。
弓館小鰐の『スポーツ人国記』には西武鉄道(旧社)に所属して上井草競技場(1927年開場[21])の設計を担当したとある[13]。また雑誌『サラリーマン』1929年3月号の記事には、上井草競技場の運営を担当していた西武から同年3月より「神田美津野運動具店」(「美津野」は「美津濃」の誤記か)に移ることになったとある[22]。同じ1929年には読売新聞運動部の客員記者となった[23]。
その後常磐生命保険会社に勤務した[16][24]。1932年当時、常盤生命保険には陸上競技選手としてほかに長距離走の津田晴一郎、十種競技の斎辰雄が所属していた[24]。日本陸上競技連盟の役員も務めていた[9]。
1932年ロサンゼルスオリンピックに日本陸上競技連盟嘱託の役員として参加した[25]。また、1936年ベルリンオリンピックに日本代表の役員として参加した。
1938年当時は東京市の嘱託を務めていた[26]。1942年刊行の『東京市職員名鑑』には市民局体力課の「講師」として記載があり、東京市への入庁は1936年(昭和11年)6月7日とある[5]。加賀がこの当時東京市市民局体力課に所属していたことは、同年出席した座談会の雑誌記事にも言及がある[27]。
1940年の東亜競技大会では設備部長となったが[28]、就任後に胃潰瘍で倒れて実務は別の人物が担当した[29]。同年2月には母校の明治大学競走部監督に就任した[30]。
また、戦前にはプロ野球チームのキャンプに指導のため複数回招かれており、1937年には東京巨人軍[31]、1941年には阪急軍に[32]、それぞれ呼ばれた。
1946年11月5日、自宅で療養中に死去、享年49(満48歳没)[6][33]。没後、日本陸上競技連盟から1948年度の功労章を授けられている[34]。
人物
当時の日本のスプリンターには珍しい長身(5尺8寸=176 cm)の持ち主で[1]、現役引退後には「スプリント型には代表的な体質の持ち主」ながら「将来嘱目されつつ十二分にその力を発揮出来ずに競技選手としての生活を退かれたのである」と評された[35]。
川本信正は、加賀が明治大学のコーチを務めていたときに箱根駅伝伴走車のサイドカーから転落して「股間の貴重品の半ばをつぶしてしまった」と、1940年の雑誌に記している[36]。
親族
脚注
注釈
- ^ 日付については、かつて存在したウェブサイト「Sports References」は「1898年6月10日」としていた[2]。一方、加賀在世中の1937年に刊行された『人事興信録 第11版 上』では「明治三十一年八月」[3]、1933年の『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』(日本スポーツ協会(現在の日本スポーツ協会とは別組織))では「明治三十一年八月三十日」[4]、1942年の『東京市職員名鑑』では「明治31.8.30」と記載されている[5]。
- ^ 『軍事警察雑誌』の記事には加賀を「極東オリンピックに出場せしむる」とあるが[17]、加賀は実際には同年の第6回極東選手権競技大会の代表選手には選ばれていない。
出典
- ^ a b 春日俊吉『オール・スポーツ』朋文堂、1935年、340頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b “Ichiro Kaga” (英語). Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月11日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第11版 上』カ1頁 1937年(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年2月11日閲覧。
- ^ 日本スポーツ協会 編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年、カの部 7頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 都市情報社編輯部 編『東京市職員銘鑑 紀元二千六百年記念』都市情報社、1942年6月10日、73頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 『朝日新聞』1946年11月7日朝刊、2面。
- ^ a b c d e 『NTV火曜9時 アクションドラマの世界 「大都会」から「プロハンター」まで』DU BOOKS、2015年、pp.16 - 17
- ^ a b “わたしと司法”. 関東弁護士会連合会 (2003年). 2012年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月28日閲覧。
- ^ a b 改造社調査部 編『最新世界人名辞典』改造社、1932年、77頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 三十周年記念伊丹中学校史編纂委員 編『伊丹中学校史 創立三十年記念』三十周年記念伊丹中学校史編纂委員、1932年5月8日、45頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「読者の声」『アスレチックス』第2巻第4号、大日本体育協会、1923年4月、164頁。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b “野球伝来150年、謎を呼ぶ白黒写真 1世紀前、球児だった父の名が消えた?”. 神戸新聞. (2022年11月4日) 2025年2月12日閲覧。
- ^ a b c 弓館小鰐『スポーツ人国記』ポプラ書房、1934年6月15日、7頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ “競走部の歴史”. 明治大学競走部. 2012年7月28日閲覧。
- ^ “過去の優勝者・記録”. 日本陸上競技連盟. 2012年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月28日閲覧。
- ^ a b 『明治大学校友会員名簿』明治大学校友会、1935年、183頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月21日閲覧。
- ^ a b 「読者倶楽部」『軍事警察雑誌』第17巻第5号、軍警会、1923年5月、53頁。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 一記者「敗けるに敗けられぬ三田稲門戦」『野球界』第13巻第8号、野球界社、1923年6月、76-79頁。
- ^ 朝日新聞社 編『運動年鑑 大正15年度』朝日新聞社、1926年、361頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「香港に着いたわが代表 加賀君が選手に推される」『読売新聞』1925年5月13日、朝刊、5面。
- ^ 上井草スポーツセンター - すぎなみ学倶楽部(杉並区)2025年2月11日閲覧。
- ^ 天眼子「花形スポーツマンのサラリーマン生活」『サラリーマン』サラリーマン社、1929年3月、51頁。
- ^ 『読売新聞』1929年5月25日朝刊、2面。
- ^ a b 「晴れの羅府目指して鹿島立つ常盤の三社員」『保険銀行時報』第1576号、保険銀行時報社、1932年6月30日、9頁。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 大日本体育協会 編『オリムピツク大会報告 第10回』大日本体育協会、1933年、64頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 平凡社 編『新撰大人名辞典 第7巻』平凡社、1938年8月4日、142頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「経編を語る」『メリヤス日本』、メリヤス日本社、1942年6月、16-19頁。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 大日本体育会報道部「東亜大会案内」『体育日本』第18巻第5号、大日本体育会、1940年5月、2-6頁。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 森田重利「競技場設備を担当して」『体育日本』第18巻第12号、大日本体育会、1940年12月、2-10頁。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「加賀氏、明大監督に」『読売新聞』1940年2月4日、朝刊、6面。
- ^ 『読売新聞』1937年2月7日朝刊、4面。
- ^ 水町慶一郎「春の争覇戦展望」『野球界』第32巻第6号、野球界社、1942年3月、134-140頁。 記事中、前年の加賀に続いて南部忠平を招聘したと言及がある。
- ^ 『読売新聞』1946年11月7日朝刊、2面。
- ^ 日本陸連の栄章 - 日本陸上競技連盟
- ^ 『オリンピック叢書 第3』成美堂、1938年、23頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 川本信正「駅伝見物」『体育日本』第18巻第2号、大日本体育会、1940年2月、48-51頁。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 国民新聞社 編『国民年鑑 昭和12年』(再版)国民新聞社、1936年10月1日、796頁 。
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『明治大学校友会員名簿』明治大学校友会本部、1935年。
関連項目
- 加賀一郎のページへのリンク