前橋への復帰と明治維新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 00:56 UTC 版)
直基系越前松平家は18世紀半ばの松平朝矩の代に前橋城を本拠とする前橋藩に転封してきたが、度重なる利根川による浸食被害を受けて崩壊の危機に晒された前橋城を放棄し、幕府の許可を得て武蔵川越城に本拠を移転(川越藩)、前橋は分領として派遣の代官支配とした。前橋城は明和6年(1769年)に廃城・破却されていたが、旧来の藩都である前橋領では前橋城再建と藩主の前橋復帰の要望が強かった。天保年間に郡代奉行の安井政章(安井与左衛門)の指揮の下で利根川の改修が進められたことに加え、横浜開港後に前橋領の生糸の外国輸出によって財を成した前橋商人の間に、前橋城再建・藩主「帰城」のため藩に献金する経済力と気運が高まった。直克は文久3年(1863年)、幕府に願い出て前橋城の再築城を開始(工事の開始は5月であるが、幕府から正式な許可が下りたのは年末である)。慶応3年(1867年)3月、直克は前橋に本拠を移し、再び前橋藩となった。 慶応4年(1868年)3月、新政府に帰順して上野全土の鎮撫を務め、続いて会津藩と戦った。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により前橋藩知事に任じられるが、8月17日に、長男・恒之丞(後の直之)が幼少であったため、家督を養子の直方に譲って隠居した。明治30年(1897年)1月に正三位に叙位されるが、1月25日に死去した。享年58。
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