初回の挑戦失敗とバタン諸島探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:39 UTC 版)
「水谷新六」の記事における「初回の挑戦失敗とバタン諸島探検」の解説
台湾の基隆市北東海上にある彭佳嶼、棉花嶼の借地権を得ていた岡山重次郎は、かねてから彭佳嶼の住民より東沙諸島に多くのアホウドリが生息しているとの情報を入手していた。岡山はビジネスチャンスを掴んだと判断し、東沙諸島でアホウドリ羽毛採取事業を始めるため、上京して計画を進めることにした。東京で岡山は「探検家で航海王」である水谷と面会して東沙諸島の話をしたところ、水谷の賛同を得て共同で東沙諸島へ向かうことになった。 1901年10月1日、水谷は岡山らと共に品川から東沙諸島へ向かった。東沙諸島への航海は難航したが11月23日に東沙諸島に到着した。東沙諸島には中国船が停泊していて、中国人が難破船からの金属回収と海藻採りに従事していた。島の周囲は豊かな漁業資源に恵まれていて、島内には多くのカツオドリが生息していた。しかし肝心のアホウドリの姿は全く見当たらなかった。 アホウドリの羽毛採集が目的であった一行は失望し、中でも水谷は計画を持ち込んだ岡山のことを問責した。岡山は責任を認め、所有している彭佳嶼と棉花嶼の借地権を水谷に譲渡することになった。水谷たちにとってカツオドリの羽毛採取は問題にならず、また後に多くの南洋諸島で採掘が進められることになるグアノやリン鉱石についても全く関心の外にあり、アホウドリの羽毛のみが狙いであった。 東沙諸島でアホウドリ羽毛採取が思い通りに行かなかった水谷であったが、引き続いてバシー海峡のバタン諸島へ向かった。前述のように1895年の日本とスペイン間の取り決めによって、台湾とルソン島の中間線を境として北側は日本領とされていた。ところが1898年の米西戦争後に締結されたパリ条約によって、アメリカに割譲されたフィリピンの北端は北緯20度線とされた。1895年の日本とスペイン間の取り決めと、パリ条約の内容を考慮した水谷は、バシー海峡にあって北緯20度以北のバタン諸島は無主地となったものと判断したのである。 しかし水谷のもくろみは空振りに終わる。バタン諸島はきちんとスペインからアメリカに引き継がれており、到着した水谷らはアメリカ人が占領している事実を確認することになる。水谷らは1902年2月4日、香港に到着して東沙諸島、バタン諸島を経た探検行は終了した。 なお、水谷が彭佳嶼と棉花嶼の借地権を得たと考えられる時期には、目当てのアホウドリは既にほぼ絶滅していた。その後両島の借地権は後述の1907年の東沙諸島開拓の失敗後に、東沙諸島とともに西沢吉治に渡ったと考えられる。
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