初のパン・アフリカ会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:18 UTC 版)
「W・E・B・デュボイス」の記事における「初のパン・アフリカ会議」の解説
1900年、デュボイスは第1回パン・アフリカ会議(英語版)に参加した。この会議はロンドンで7月23日から25日まで開かれた(これは1900年のパリ万国博覧会の直前であり、アフリカ人の来賓が両方のイベントに参加できるようにするためであった)。この会議はハイチ人オンテノー・フィルマン(英語版)、ベニート・シルヴァン(英語版)、トリニダード人弁護士(barrister)のヘンリー・シルヴェスター・ウィリアムズ(英語版)といったカリブ人の男性たちによって組織された。ヨーロッパ諸国の指導者たちにレイシズムとの闘争、アフリカおよび西インド諸島の植民地に自治権を与えること、アフリカ系アメリカ人が政治およびその他の権利を要求することを認めるように彼らに訴える書状(Address to the Nations of the World)が作られ、デュボイスはこれの起草において主導的な役割を果たした。この頃までに、アメリカの南部諸州はアフリカ系アメリカ人の大半の権利を剥奪(英語版)する新しい法律と憲法を通過させており、この政治システムからの除外は1960年代まで続くことになる。 パン・アフリカ会議において出席者たちは満場一致で「Address to the Nations of the World」を採択し、アフリカ系の人々が居住し抑圧に苦しんでいる国々に向けてそれを送った。これはアメリカ合衆国およびヨーロッパの帝国主義諸国が「アフリカ系の人々の権利を認め保護する」こと、そして「アビシニア、リベリア、ハイチのような自由な黒人の国家」の完全性と独立を尊重することを求めた。司教アレクサンダー・ワルターズ(英語版)(パン・アフリカ協会(英語版)議長)、カナダ人牧師ヘンリー・B・ブラウン(Henry B. Brown、副議長)、ウィリアムズ(Williams、書記長)、そしてデュボイス(宣言委員会議長)がこれに署名した。この宣言には「20世紀の問題はカラー・ラインの問題である」というデュボイスの見解が含まれていた。彼は3年後に著書『The Souls of Black Folk』(1903年)の「Forethought(見通し)」においてもこの表現を使っている。
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