分離運動の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 17:13 UTC 版)
第一次世界大戦で連合国側で戦い、チェコスロバキアの成立を目指していたエドヴァルド・ベネシュらが率いるチェコスロバキア独立派は、戦後の国土として「ボヘミア王冠領(聖ヴァーツラフの王冠諸邦)」であるボヘミア・モラヴィア・シレジアの領域を要求していた。しかし彼の地のドイツ人はドイツないしはオーストリアの内部に留まることを要求。1917年9月16日にはこの地域の社会民主労働党が分離の動きに反対する集会を行った。 1918年10月28日に国内のチェコスロバキア独立派が独立宣言を行うと、翌10月29日にはドイツ人帝国議会議員が中心として、エーガラントと北ボヘミアに「ドイツ系ボヘミア州(ドイツ語版、チェコ語版、英語版)」の成立を宣言。さらに10月30日にはシレジア、北モラヴィア、東部ボヘミアに「ズデーテンラント州(ドイツ語版、チェコ語版、英語版)」が形成され、11月には南部ボヘミアと南部モラビアでベーマーヴァルトガウとツナイム(Zneim、en)の両自治政府が建設された。これらドイツ系諸政府は地域の正式な確定が行われるまで、チェコスロバキア政府との間で行政に関する暫定協定を結ぼうとしたが、チェコスロバキア側は「反逆者とは交渉しない」とこれを拒否した。11月20日にはチェコ軍団がドイツ系諸政府域への侵攻を開始し、12月18日までにドイツ系諸政府は解体・亡命を余儀なくされた。一方で1918年11月に成立したドイツ=オーストリア共和国政府は、ドイツ系地域をドイツボヘミア州(de:Deutschböhmen und Deutschmährer)、ズデーテンラント州(ドイツ語版)、オーバーエスターライヒ州に区分し、領有権を主張していた。 パリ講和会議が始まるとオーストリア政府はドイツ人居住地域のチェコスロバキアへの編入に反対し、もし行う場合でも住民投票を行うよう要求した。一方でチェコスロバキア政府も実効支配の追認を要求した。アメリカは民族自決の観点からドイツへの編入を主張したが、安全保障の観点からチェコスロバキアの強化を狙うフランスの要求が通り、ドイツ人居住地域はチェコスロバキアの領土となることが確定した。こうして310万におよぶドイツ人はチェコスロバキアにおける「最大の少数民族」となった。しかしサン=ジェルマン条約と同じ日にチェコスロバキア政府と連合国の間で、チェコスロバキア国内の民族平等を定めた「少数民族保護条約」が締結され、ドイツ人を含めた諸民族の権利保護が求められた。
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