分裂 1964年-1965年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 15:27 UTC 版)
「ミシェル・アフラク」の記事における「分裂 1964年-1965年」の解説
軍事委員会と決別した元委員ウムランが、アフラクに、委員会の市民指導層を追放しバアス党を支配するという極秘計画を暴露した。直後に、ウムランはアフラク派支援のため、スペインに大使という形で逃れた。アフラクはこの脅威に対し、民族指導部に地域指導部を解散することを要求した。しかし、党員の大多数の反対を受けて、要求の撤回を余儀なくされた。また、党の規律を強化し、彼らを規制した。軍事委員会はさらにこれに対抗し、地域主義者を自称する反アフラク派市民を断固として支援した。 1965年3月、バアス党シリア支部地域党大会が行なわれ、民族指導部から地域指導部への権力移譲が行なわれた。それ以降、地域指導部がシリアの事実上の最高権力組織となった。地域書記長が、首相、内閣、軍司令官を指名する権限を持った。アフラクは第8回党大会を開いて対決を図るも、何の成果ももたらさなかった。しかし、レバノンやサウジ選出の一部の民族指導部メンバーが、軍事委員会を抑えすぎると逆に党全体を支配下に置こうとし、イラクと同様の事態になるのではないかと、忠告した。このアドバイスを受け、アフラクは沈黙を保った。しかし、驚いたことに沈黙があだとなって、事務総長の地位を失い、シリア系レバノン人のムニーフ・アッ=ラッザーズが継承した。しかし、2つの陣営は予期せぬ形で入れ替わった。ハーフィズ大統領がアフラク派に転じた。ハーフィズが加わったことで、アフラク派は再興され、ビータールやウムランがスペインから戻り、新政府に加わった。
※この「分裂 1964年-1965年」の解説は、「ミシェル・アフラク」の解説の一部です。
「分裂 1964年-1965年」を含む「ミシェル・アフラク」の記事については、「ミシェル・アフラク」の概要を参照ください。
- 分裂 1964年-1965年のページへのリンク