分裂、そしてアニメ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 22:34 UTC 版)
「天然色活動写真」の記事における「分裂、そしてアニメ」の解説
盟友であったはずの小林と山川は必ずしもうまくいかなかった。1914年9月の時点で小林も山川も一度辞職しており、小林は「小林商会」を設立、山川も「山川興行部」を設立し、天活の興行権を東西に分けて委任され、それぞれ独自の「連鎖劇」興行も行った。小林商会は天活から多くの現代劇の俳優を引き抜いた。 この間、アニメーションの研究が盛んになり、1915年に日活向島撮影所に洋画家の北山清太郎が入社したのを皮切りに、1916年に天活は下川凹天を、小林商会は東京パック社から幸内純一を引き抜き、競争になったが、翌1917年1月、下川監督の『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』を公開し、同作が日本初のアニメ映画となった。 同年3月には、菊池幽芳原作の『毒草』を天活が川口吉太郎(のちの川口呑舟)監督・脚本、村田正雄主演で製作するや、小林商会はまったく同じ原作をまったく同じタイトルで、天活の俳優部から引き抜いた井上正夫と栗島狭衣をそれぞれ監督と脚本および主演に据え、まったく同じ3月11日に興行をぶつけてくるという珍事件が起きる。浅草では大勝館(天活)と三友館(小林)で、同日2本の異なった『毒草』が同時に上映された。その後、1917年内に小林商会は倒産、山川興行部もなりを潜めた。 1919年(大正8年)3月27日、「日暮里撮影所」が火災で焼失する。そこで同年、巣鴨に「天然色活動写真巣鴨撮影所」(現在の豊島区西巣鴨4丁目9番1号)を開設した。その後、仮設で復興した「日暮里撮影所」で、カメラマン枝正が初めて脚本を書き、撮影もした初監督作『哀の曲』を、同年10月18日、京橋豊玉館ほかで公開した。また、同年9月からは帰山教正の「映画芸術協会」製作作品を天活が配給もしている。第一作は1920年松竹蒲田撮影所に入社し監督に転向する直前の村田実主演による『深山の乙女』であった。
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