出生から館林藩士時代
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柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。武田氏の滅亡後、武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、柳沢氏は吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官した。柳沢氏は土屋氏と並んで、武田遺臣から近世大名化した一族として知られる。 万治元年(1658年)12月18日、吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれる。母は安忠の側室である佐瀬氏(了本院)。了本院は安忠の所領がある上総国一袋村の出身で、安忠正室・青木氏の侍女となる。了本院は吉保出産後に実家へ戻ったため、吉保は安忠正室・青木氏のもとで養育されたが、後に吉保は了本院の存在を知ると江戸で呼び寄せた。吉保は長男ではあったが、父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は吉保の姉婿となっていた従兄の信花(父・安忠の甥)が養嗣子となって継いだ。 寛文4年(1664年)12月18日、館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見する。寛文12年(1672年)に甲斐国恵林寺において行われた武田信玄百回忌の法要においては、父安忠とともに奉加帳に名を連ねている。同年11月15日には家臣・曽祢貞尅の介錯で半元服を行う。翌寛文13年(1673年)11月15日に元服する。 延宝3年(1675年)7月12日には父・安忠の致仕に際して家督を相続し、保明(やすあき)と改名する。家禄530石。小姓組番衆となり、同年12月18日には旗本・曽雌盛定の娘・定子と婚約する。延宝4年(1676年)2月18日には定子と婚姻する。延宝5年(1677年)には曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵に参禅し、公案を授かっている。同年6月16日には安忠正室の青木氏が死去している。
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