出生から館林藩士時代とは? わかりやすく解説

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出生から館林藩士時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:01 UTC 版)

柳沢吉保」の記事における「出生から館林藩士時代」の解説

柳沢氏清和源氏流れを引く河内源氏支流甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏末裔称し甲斐国北西部在郷武士団である武川衆属した武田氏の滅亡後武田遺臣多く徳川家康家臣団組み込まれ柳沢氏は吉保の祖父にあたる信俊が家康仕官した柳沢氏土屋氏並んで武田遺臣から近世大名化した一族として知られる万治元年1658年12月18日、吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠長男として江戸市ヶ谷生まれる。母は安忠の側室である佐瀬氏(了本院)。了本院は安忠の所領がある上総国一袋出身で、安忠正室青木氏侍女となる。了本院は吉保出産後実家戻ったため、吉保は安忠正室青木氏のもとで養育されたが、後に吉保は了本院存在を知ると江戸で呼び寄せた。吉保は長男ではあったが、父の晩年庶子であり、柳沢家家督は吉保の姉婿となっていた従兄の信花(父・安忠の甥)が養嗣子となって継いだ寛文4年1664年12月18日館林藩主・徳綱吉初め謁見する寛文12年1672年)に甲斐国恵林寺において行われた武田信玄回忌法要においては、父安忠とともに奉加帳名を連ねている。同年11月15日には家臣曽祢貞尅の介錯半元服を行う。翌寛文13年1673年11月15日元服する延宝3年1675年7月12日には父・安忠の致仕に際して家督相続し保明(やすあき)と改名する家禄530石。小姓組番衆となり、同年12月18日には旗本・曽雌盛定の娘・定子婚約する延宝4年1676年2月18日には定子婚姻する。延宝5年1677年)には曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵に参禅し、公案授かっている。同年6月16日には安忠正室青木氏死去している。

※この「出生から館林藩士時代」の解説は、「柳沢吉保」の解説の一部です。
「出生から館林藩士時代」を含む「柳沢吉保」の記事については、「柳沢吉保」の概要を参照ください。

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