再登板とリュエフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 22:52 UTC 版)
「シャルル・ド・ゴール」の記事における「再登板とリュエフ」の解説
1958年5月、アルジェリアのフランス植民者(コロン)がアルジェリアの独立運動に対抗するためアルジェリア駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻し、「ド・ゴール万歳」を唱えてフランス本土への侵攻計画を立てた(アルジェ動乱)。現地駐屯の落下傘連隊がコルシカ島を占領し、鎮圧に向かった共和国保安隊も到着後反乱軍に同調し、フランス本土に脅威を与え始めた。そこで当時の首相ピエール・フリムランと大統領のルネ・コティは軍に顔の利くド・ゴールに出馬を要請した。 「現在の極めて困難な情勢の中で行動するために必要な全権」を求め、1946年憲法が「政党支配制(Régime des partis)」に他ならず、執行府により大きな安定性と権威とを与えるが、だからといって民主的であることをやめないような新しい政治体制に、座を譲るべきであると確信していた。ド・ゴールは首相指名を受けたあとの6月1日、国民議会に対して6か月間の全権委任を要求し、新憲法草案を提示した。議会はこれを承認してド・ゴールは正式に首相に就任した。この全権は1958年6月3日の憲法的法律(フランス語版)によって承認された。ジャック・マシュ将軍やラウル・サラン将軍など駐留軍首脳部はこれを支持した。そして6月4日にアルジェのアルジェリア総督府からド・ゴールが「私は諸君を理解した!」と叫んだ。 ヨーロッパぐるみの周到な計画によりアルジェリア情勢は落ち着いたが、その全貌は説明しきれない。1958年からジャック・リュエフが動態の基軸をなしていた。レイモン・ポアンカレのときから政府の経済顧問であったが、フランス銀行副総裁の地位をヴィシー政権に追われた彼は、戦後にモンペルラン・ソサイエティーを主導し、1952年から10年もの間ヨーロッパ司法裁判所で判事を、1959年から翌年にかけてモナコ首相を務めた。リュエフ・プランがフランスの対外債務を償却した。
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