再洗礼派統治の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 09:01 UTC 版)
「ミュンスターの反乱」の記事における「再洗礼派統治の始まり」の解説
1534年2月23日の市参事会員選挙で再洗礼派が勝利したため、彼らは合法的に都市の統治権を得ることになった。また、2月後半にオランダ再洗礼派の指導者であるヤン・マティス Jan Mathys がミュンスターにやって来た。そのため、ヤン・マティス、ヤン・ファン・ライデンというオランダから来た二人の預言者と市参事会が、共同でミュンスターを統治することになった。 再洗礼派指導部は、都市から不浄な者を排除し、聖人の共同体を作るため、2月27日に成人洗礼を受け入れるつもりのない住民を市から追放し、市に残った住民全てに成人洗礼を強制すると布告した。そのため、すでに司教との対決を恐れ多くの住民が市を出て行っていたが、さらに多くの住民が自ら市を離れる、あるいは追放されることとなった。 さらに、市内では財産共有制が導入され始めた。預言者や説教師は、貨幣、金、銀を市庁舎に持ってくるように説教した。しかし、全ての貨幣、金、銀を持ってきたのは住民の一部であり、全てを持ってこなかった者、全く持ってこなかった者もいた。 他方、5月25日には、包囲軍による最初の大規模な襲撃が起こった。再洗礼派たちがこの襲撃を撃退したが、この戦いで包囲軍、再洗礼派双方に多くの犠牲者が出た。 ヤン・マティスは復活祭に終末が訪れると予言していたため、ミュンスターから各地に派遣された使徒たちは、神の罰を免れるために、「新しいエルサレム」であるミュンスターに来るよう各地の再洗礼派たちに呼びかけた。この呼びかけに応じて、数千人の再洗礼派たちがミュンスターラント、オランダ、フリースラント、ブラバント、下ライン地方など北西ヨーロッパ一帯からミュンスターにやってきた。 しかし、復活祭の4月6日にマティスは、わずかな手勢を連れて、市外に飛び出したため、包囲軍の傭兵たちによって殺害された。このように、マティスの予言は失敗に終わり、ミュンスター再洗礼派は、彼らの指導者を失った。 この時期の事件史的経緯については、以下の文献を参照のこと。
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