内藤露沾とは? わかりやすく解説

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内藤義英

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 07:06 UTC 版)

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内藤義英
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦元年5月1日1655年6月5日
死没 享保18年9月14日1733年10月21日
別名 露沾(俳号)
陸奥磐城平藩世嗣
氏族 内藤氏
父母 内藤義概松平忠国
兄弟 義邦、義英義孝岡部長泰正室、
小出英安正室
政樹菊姫松平信岑継室
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内藤 義英(ないとう よしひで)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人陸奥国磐城平藩世嗣。俳号は露沾。6代藩主(後に日向延岡藩初代藩主)内藤政樹の実父。

生涯

明暦元年(1655年)、磐城平藩3代藩主・内藤義概の次男として誕生。母は松平忠国の娘。長兄・義邦が早世したため、本来なら世子に指名されるはずだった。しかし父の寵臣である松賀族之助(木下重堅の孫)の讒言に加え、父・義概は50歳近くになって生まれた弟・義孝を溺愛していたことにより、病弱を口実として父に廃嫡され、一時幽閉された。このため、貞享2年(1685年)に義概が死去すると、義孝が家督を継ぐこととなった。

義英は藩政には口出しせず、江戸麻布の屋敷で隠居生活を送った。元々父の義概も風虎という俳号を持つ俳諧大名であり、義英もその影響を受けたものと思われるが、義英は露沾(ろせん)という俳号を名乗って松尾芭蕉宝井其角らと交遊し、元禄4年(1691年)に刊行された芭蕉七部集の一つである「猿蓑」の春の巻の冒頭では、義英の句が採用されている。

享保3年(1718年)、5代藩主・内藤義稠が死去すると、6代藩主の座を義英の長男の豊松(政樹)が継ぐこととなり、義英は幼少の政樹の後見人として藩政を代行した。そして父の代から藩で続いていた政治的混乱(小姓騒動)の鎮静化に努め、政樹が成長すると実権を譲って藩政から引退し、再び俳句活動に専念する。また、義英の影響で家中より福田露言・水間沾徳など俳人としても知られる家臣を輩出した。

著作として、露沾公句集という句集がある。享保18年(1733年)に死去した。享年79。

系譜




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