共和人民党党首時代
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「ビュレント・エジェヴィト」の記事における「共和人民党党首時代」の解説
1971年に軍部の政治介入に反対したエジェヴィトは、軍に対して融和的なイノニュと対立した。翌年の党大会の書記長選挙でエジェヴィトがイノニュの支持派を破ったことからイノニュは党首を辞任し、1972年5月14日、エジェヴィトが共和人民党第3代党首に就任した。 エジェヴィトの新路線の下、共和人民党は1973年の総選挙で議席を増やし、翌1974年にネジュメッティン・エルバカンの宗教右派政党の国民救済党と連立して政権を奪取し、1月26日にエジェヴィトは首相に就任した。 在任中の同年7月にはキプロスでの親ギリシャ派によるクーデター(英語版)発生に対して軍事介入を決定。キプロスにトルコ軍を派遣して同島の北部を占領し、トルコ系住民を保護するとともにクーデター政権の崩壊を導いたが、30年以上に渡って続くキプロスの南北分断のきっかけを作ることになり、現在も国際的な非難を浴びている。また、政権もキプロス介入の成功による国民的人気もかかわらず宗教右派である国民救済党との閣内不一致から10ヶ月の短命に終わった。 1977年6月の総選挙で、共和人民党は総票数の40%以上を得票する大勝利を収め、エジェヴィトは共和人民党単独政権の首相に就任した。しかしその獲得議席は過半数に満たなかったため、少数与党での政権運営を余儀なくされ、再び短命政権に終わり、公正党のデミレル率いる連立政権と交代した。 しかしデミレル政権も造反者が出て短命に終わり、1978年1月5日、エジェヴィトは3度目の首相に返り咲いたが、少数与党のため常に党外の議員の協力を受けなければならなかった。この間、短命連立政権の連発の影で経済の混乱と左右対立の激化が進み、エジェヴィトも支持を失っていった。1979年11月、共和人民党は中間選挙に敗れ、エジェヴィトは再びデミレルに政権を譲った。 経済と政治の混乱が頂点に達した1980年9月12日、軍がクーデターを起こして政権を奪取し(9月12日クーデター)、エジェヴィトはデミレル、エルバカンら他の有力政治家とともに逮捕され、共和人民党も解党された。
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