共和人民党党首時代とは? わかりやすく解説

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共和人民党党首時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 21:52 UTC 版)

ビュレント・エジェヴィト」の記事における「共和人民党党首時代」の解説

1971年軍部政治介入反対したエジェヴィトは、軍に対して融和的なイノニュと対立した翌年党大会書記長選挙でエジェヴィトがイノニュの支持派破ったことからイノニュは党首辞任し1972年5月14日、エジェヴィトが共和人民党第3党首就任した。 エジェヴィトの新路線の下、共和人民党1973年総選挙議席増やし、翌1974年ネジュメッティン・エルバカン宗教右派政党国民救済党連立し政権奪取し1月26日にエジェヴィトは首相に就任した。 在任中の同年7月にはキプロスでの親ギリシャ派によるクーデター英語版発生に対して軍事介入決定キプロストルコ軍派遣して同島の北部占領しトルコ系住民保護するとともにクーデター政権崩壊導いたが、30年以上に渡って続くキプロス南北分断きっかけ作ることになり、現在も国際的な非難浴びている。また、政権キプロス介入成功による国民的人気かかわらず宗教右派である国民救済党との閣内不一致から10ヶ月短命に終わった1977年6月総選挙で、共和人民党は総票数の40%以上を得票する大勝利収め、エジェヴィトは共和人民党単独政権首相に就任した。しかしその獲得議席過半数に満たなかったため、少数与党での政権運営余儀なくされ、再び短命政権終わり公正党のデミレル率い連立政権交代した。 しかしデミレル政権造反者出て短命に終わり1978年1月5日、エジェヴィトは3度目の首相返り咲いたが、少数与党のため常に党外の議員協力を受けなければならなかった。この間短命連立政権連発の影で経済混乱左右対立の激化進み、エジェヴィトも支持失っていった。1979年11月共和人民党中間選挙敗れ、エジェヴィトは再びデミレルに政権譲った経済政治混乱頂点達した1980年9月12日、軍がクーデター起こして政権奪取し9月12日クーデター)、エジェヴィトはデミレル、エルバカンら他の有力政治家とともに逮捕され共和人民党解党された。

※この「共和人民党党首時代」の解説は、「ビュレント・エジェヴィト」の解説の一部です。
「共和人民党党首時代」を含む「ビュレント・エジェヴィト」の記事については、「ビュレント・エジェヴィト」の概要を参照ください。

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