共和主義者との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 08:57 UTC 版)
「ウンベルト1世」の記事における「共和主義者との対立」の解説
1878年11月17日、即位を記念するパレードでベネデット・カイローリ(英語版)首相と民衆の歓声に応えていたところ、無政府主義者を名乗るジョヴァンニ・パッサンナンテ(英語版)という人物に斬りつけられる事件が起きる。咄嗟にウンベルト1世はサーベルを引き抜いてパッサンナンテの刃を防いだが、隣り合わせていたベネデット首相は足に重傷を負った。国家転覆と王政打倒が目的であったパッサンナンテは凶行後に警察に取り押さえられ、議会は大逆罪として死刑を決定した。しかしウンベルト1世はこれを拒否し、暗殺犯を終身刑に減刑する恩赦を出した。政府はこれを受け入れたが、代わりにほとんど身動きの取れない狭い独房で拷問を与えた。後に釈放されたパッサンナンテは精神病院で死亡した。 ウンベルト1世が即位した時のイタリア王国は新興国家として活気がある時代であったが、同時に多くの政治的問題が表面化した時期でもあった。特に大きな問題として、旧両シチリア王国領がサルデーニャ式の統治に馴染めず、最後まで抵抗したがためにサヴォイア王家から冷遇されているという不満が充満していた。また先の無政府主義に続き、社会主義・共産主義など貴族制と王政の廃止を求める共和運動も勢いを増していた。特に若き日のベニート・ムッソリーニらが所属していたイタリア社会党はウンベルト1世の悩みの種であった。 1897年4月22日、貧しい鍛冶師ピエトロ・アッキアリート(英語版)による暗殺計画が行われ、未然に防がれたものの共和主義者との敵対が続いていることを示した。
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