共同出資と海上貸付
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:42 UTC 版)
ポルトガルの東インド貿易は、名目上は全てポルトガル王室の事業だったが、単独で人員と船を継続するのは人口と王室の財政規模から不可能だった。たとえば1505年にインド洋に送った22隻の船団には王室の年収の75%以上の費用がかかったため、イタリア系やドイツ系の商人グループが半額以上を投資している。また、船を送る権利は貴族や商人に有料で譲渡された。ポルトガルやスペインの貿易は、16世紀後半からジェノヴァ共和国のサン・ジョルジョ銀行から融資を受けていた。リスク管理のために複数の人間が共同出資するコンパーニアや、高利の海上貸付であるレスポンデンシアが行われていた。ポルトガルはカトリック教国であり、教会法ではウスラによって高利が禁じられていた。このためカトリック教徒の間では、海上貸付は海上保険の名目で扱われた。 マカオに着任したベルショール・カルネイロ司教は、慈善院(ミゼリコルディア)を設立した。当時ポルトガルの慈善院には、富裕者の資金を投資や貧者への喜捨に運用する銀行業務が含まれており、リオとゴアなど遠隔地間の信用為替取引も行われていた。マカオの慈善院では、南蛮貿易の航海資金も貸し出した。東インド管区の巡察使としてアレッサンドロ・ヴァリニャーノがマカオに着き、日本への布教資金の確保を課題とした。そこでカルネイロは、生糸の出資組合であるコンパーニアやアルマサンと契約を結ぶ。この契約により、毎年50ピコの生糸の割り当てをイエズス会が確保するようになり、会の財源となった。カルネイロの契約によって、大商人による生糸の独占はなくなり、少額資本でも南蛮貿易に参加できるようになった。コンパーニアやレスポンデンシアは、のちに長崎で投銀(なげかね)と呼ばれる投資形態の原型となった。
※この「共同出資と海上貸付」の解説は、「南蛮貿易」の解説の一部です。
「共同出資と海上貸付」を含む「南蛮貿易」の記事については、「南蛮貿易」の概要を参照ください。
- 共同出資と海上貸付のページへのリンク