公式の名誉回復へ向けて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)
東京大学理学部を卒業の後三井物産に勤務していた古崎博は、1940年(昭和15年)、重要な軍事物資だった水銀調達の相談のために、大連特務機関長・安江仙弘大佐を訪問した際、「リトアニアにいた日本領事が、外務省の反対を押し切って、満洲に逃げてくる千人近いユダヤ人に査証を発行して、これをすくったことがある。この領事は外務省から叱られて本国召還をくらったようですがね」と、安江が述べたことを記録している。1940年(昭和15年)のこの面談の日付は明示されていないが、難民たちがカウナスの領事館に殺到した7月から、安江がまだ予備役に編入される前の9月、の間であることは間違いない。「本国召還」などは史実と相違しているが、「カウナス事件」という名前で外務省内で問題視されていた千畝にまつわる事件が、在欧武官府から東京の陸軍中央まで伝えられていた事実を証言している。 千畝の依願退職に関しては、戦後日本の省庁機能を再建する際に、外務省関係者の間で「カウナス事件」における不服従が問題になり、終戦連絡中央事務局連絡官兼管理局二部一課から、千畝の解雇が進言された事実が、堺屋太一、加藤寛、渡部昇一らの対談によって、具体的に証拠立てられた。 渡部昇一がその著作で「杉原は本省の命令を聞かなかったから、クビで当たり前なんだ。クビにしたのは私です」と証言したとする曽野明に対して、加藤寛がその内容を照会したところ、「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなど、もっての外であり、絶対、組織として許せない」と曽野が述べたという。この曽野明と、曽野に引き抜かれた都倉栄二、そして先の新関欽哉こそ、杉原なき外務省で戦後の対ソ外交を主導したキャリア官僚3人であった。 政治学者の小室直樹は、「これは人道的立場からのやむを得ざる訓命違反であって、失策ではない。杉原千畝元領事は、戦後直ちに外務省に呼び戻すべきであった。日本外務省は、日本の外交的立場をぐっと高めるに足る絶好のチャンスを、みすみすと失ったのである」と、杉原の免職を批判している。
※この「公式の名誉回復へ向けて」の解説は、「杉原千畝」の解説の一部です。
「公式の名誉回復へ向けて」を含む「杉原千畝」の記事については、「杉原千畝」の概要を参照ください。
- 公式の名誉回復へ向けてのページへのリンク