八木氏時代
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伝承によると1063年(康平6年)閉伊頼国が前九年の役で功労があり、源頼家から但馬国が与えられ、八木の地に築城したのが始まりではないかと言われているが、「確かな史料はない」とし不明とする指摘もある。その後1194年(建久5年)に朝倉高清が源頼家から但馬国を与えられ朝倉城を築城し、朝倉氏と閉伊氏の間で何度か合戦があり、朝倉氏は閉伊氏に勝利し、朝倉高清の第二子、重清を八木城の城主とし、八木の姓を名乗られ八木重清となった。以後八木氏は15代、300年以上にわたりこの地で栄え、第六代城主八木重家は但馬国守護山名時氏、山名時義の重臣となり太田垣氏、垣屋氏、田結庄氏と共に山名四天王に数えられた。 第15代城主八木豊信になると但馬国の状況にも変化がでてくる。但馬国守護山名氏の勢力が弱体していくと、織田氏と毛利氏が但馬国に手を伸ばしてきた。『八木豊信書状』によると天正3年(1575年)11月に八木豊信は吉川元春に但馬国の状況を報告し、出兵を懇請している記述が見受けられる。また織田信長の命に従い羽柴秀吉を総大将に1577年(天正5年)と1580年(天正8年)の二度に渡って侵攻してきた。これに伴い1578年(天正6年)時点では織田勢に属していた田結庄是義、垣屋光政、山名祐豊と、毛利勢に属していた垣屋豊続、太田垣輝延、八木豊信に勢力が二分したようである。八木豊信は表面的には毛利勢に属していたが、後に態度が変節していったと思われている。「天正四年段階には八木氏は、はっきりと毛利派であったが、天正六年段階では消極的になっていたようである」とされている。 第一次但馬国侵攻は、天正5年(1577年)11月上旬開始されたが、上月城の城主上月政範が謀反したため、羽柴秀吉軍は但馬国を撤兵、同年11月27日に上月城の攻城戦を開始しわずか7日間で落城した。この時播磨国と但馬国に戦線が拡大するのを恐れた羽柴秀吉軍は、但馬国に関してはそのままの状態となり、八木豊信もそのまま留まった。しかし、翌1578年(天正6年)には羽柴秀吉は竹田城にいた。『信長公記』によると、「羽柴筑前は但馬国へ相働き、国衆前々のごとく召出し、竹田の城に木下小一郎入置かれ候キ」(『信長公記 六月廿六日』)と記している。つまり6月には、羽柴秀吉軍は竹田城に入城しており竹田城を拠点として但馬国の奪取を企て、恐らく八木城周辺が織田軍と毛利軍の最前線となっていた。天正7年(1579年)7月毛利軍に属していた吉川元春隊は、垣屋豊続の要請により竹野まで出軍してきたが、南条氏が後方で離反したため撤兵した。これにより、八木豊信は毛利方から織田方に寝返り羽柴秀吉軍の軍門に降ったと思われている。その後羽柴秀吉に従って八木豊信は因幡攻めに参戦し、天正8年(1580年)5月21日鳥取城の攻城の拠点として八木豊信は若桜鬼ヶ城に入り守備していた。しかし天正9年(1581年)3月18日鳥取城に吉川経家が入城すると、吉川元春は巻き返しを開始、若桜鬼ヶ城に攻城し支えきれず但馬国へ退却してしまい、八木豊信はその後行方不明となってしまう。
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