八木氏時代とは? わかりやすく解説

八木氏時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 19:13 UTC 版)

八木城 (但馬国)」の記事における「八木氏時代」の解説

伝承によると1063年康平6年閉伊頼国が前九年の役功労があり、源頼家から但馬国与えられ八木の地に築城したのが始まりではないかと言われているが、「確かな史料はない」とし不明とする指摘もある。その後1194年建久5年)に朝倉高清が源頼家から但馬国与えられ朝倉城築城し、朝倉氏閉伊氏の間で何度合戦があり、朝倉氏閉伊氏勝利し朝倉高清の第二子、重清を八木城城主とし、八木の姓を名乗られ八木重清となった以後八木氏15代、300年以上にわたりこの地で栄え第六城主八木重家は但馬国守護山名時氏山名時義重臣となり太田垣氏垣屋氏田結庄氏と共に山名四天王数えられた。 第15代城主八木豊信になると但馬国状況にも変化がでてくる。但馬国守護山名氏勢力弱体していくと、織田氏毛利氏但馬国に手を伸ばしてきた。『八木豊信書状』によると天正3年1575年11月八木豊信吉川元春但馬国状況報告し出兵懇請している記述見受けられる。また織田信長の命に従い羽柴秀吉総大将1577年天正5年)と1580年天正8年)の二度渡って侵攻してきた。これに伴い1578年天正6年時点では織田勢に属していた田結庄是義垣屋光政山名祐豊と、毛利勢に属していた垣屋豊続、太田垣輝延八木豊信勢力二分したようである。八木豊信表面的に毛利勢に属していたが、後に態度変節していった思われている。「天正四年段階には八木氏は、はっきりと毛利であったが、天正六年段階では消極的になっていたようである」とされている。 第一次但馬国侵攻は、天正5年1577年11月上旬開始されたが、上月城城主上月政範謀反したため羽柴秀吉軍但馬国撤兵同年11月27日上月城攻城戦開始しわずか7日間落城した。この時播磨国但馬国戦線拡大するのを恐れた羽柴秀吉軍は、但馬国に関してそのままの状態となり、八木豊信そのまま留まった。しかし、翌1578年天正6年)には羽柴秀吉竹田城にいた。『信長公記』によると、「羽柴筑前但馬国へ相働き国衆前々のごとく召出し竹田の城に木下小一郎置かれ候キ」(『信長公記 六月廿六日』)と記している。つまり6月には、羽柴秀吉軍竹田城入城しており竹田城拠点として但馬国奪取企て、恐らく八木城周辺織田軍と毛利軍最前線となっていた。天正7年1579年7月毛利軍属していた吉川元春隊は、垣屋豊続の要請により竹野まで出軍してきたが、南条氏後方離反したため撤兵した。これにより、八木豊信毛利方から織田方に寝返り羽柴秀吉軍軍門に降った思われている。その後羽柴秀吉に従って八木豊信因幡攻め参戦し天正8年1580年5月21日鳥取城攻城拠点として八木豊信若桜鬼ヶ城入り守備していた。しかし天正9年1581年3月18日鳥取城吉川経家入城すると、吉川元春巻き返し開始若桜鬼ヶ城攻城支えきれず但馬国退却してしまい、八木豊信その後行方不明となってしまう。

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