全国レーテ大会
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レーテ執行評議会はドイツ各地のレーテに指令し、レーテを州ごと、郡県市町村ごとに再編成を行った。また12月16日にベルリンにおいてレーテの全国大会を開催するよう呼びかけた。独立社会民主党はこの大会によってレーテ体制をさらに強固にし、レーテ体制に基づく国家を作ろうと考えていたが、社会民主党は政府に対して協力的なレーテができるだろうともくろんでいた。レーテ執行評議会は内部対立により、12月初頭にはほとんど政治的な意義を失っていた。 12月16日に開催された全国レーテ大会(ドイツ語版)は、全国から489人の代表評議員によって構成されていた。構成割合は労働者レーテの代表者が405人、兵士レーテの代表者が84人であった。所属政党別では社会民主党系が291名、独立社会民主党系が90名(うち10名はスパルタクス団系)、25名が民主党系、11名が統一革命団であった。同日には25万名が参加した「すべての権力をレーテに!」と叫ぶデモが行われたが、社会民主党系が圧倒的であるレーテ大会の帰趨はあきらかであった。 大会では全政治的権力がレーテ大会にあるとされたものの、大会はそれを国民議会の決定が行われるまで臨時政府に委ね、新設された共和国中央評議会(ドイツ語版)がその監督に当たるという決議が採択された。また、国民議会選挙については1919年1月19日に行うこととなった。共和国中央評議会は全国のレーテの代表と定義されたものの、その監督権限は事実上形骸化したものであった。独立社会民主党は共和国中央評議会への不参加を決め、27人の中央委員すべてが社会民主党系で占められることとなった。 また海軍53人委員会の縮小も提案され、可決された。これは社会民主党の主張によるものであったが、一部の水兵系レーテによる53人委員会への反発も背景に存在した。 一方で、軍の首脳が兵士レーテの解散を命じていたという事実が暴露され、また兵士レーテの一部が軍における階級制度を廃止するように要求するという事件も発生した。このため社会民主党側も彼らの要求に応じざるをえず、「軍における階級の廃止、兵による指揮官の選挙、将校の特権的な地位の排除」を求める「ハンブルク条項」の可決に追い込まれた。しかしこれは軍上層部はもちろん、エーベルト=グレーナー協定(ドイツ語版)によって軍との協力を合意していた社会民主党にとっても受け入れられないものであった。ヴィルヘルム・グレーナー参謀次長は政府およびレーテ執行評議会に対してハンブルク条項の実施は困難であると主張し、その実現を延期させた。
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