全ロシア飢餓救済委員会から飢餓救済中央委員会へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:53 UTC 版)
「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の記事における「全ロシア飢餓救済委員会から飢餓救済中央委員会へ」の解説
1921年6月、インテリゲンツァ、農学者、経済学者、大学関係者らがモスクワ農業協会に集まり、飢餓と闘う委員会を結成した。女性ジャーナリストのエカチェリーナ・クスコーヴァは作家のマクシム・ゴーリキーと親しく、彼の仲介で共産党のカーメネフに面会した。委員会のメンバーは、指導的人物を勧誘した。多くの高名な人物が参加した。1891年の飢饉のさいにも積極的に援助を行った、西ヨーロッパでも知られた科学者や文学者、文化人らである。1921年7月21日にロシア共産党政府は彼らを合法化し、あらたに「全ロシア飢餓救済委員会」と命名した。全ロシア飢餓救済委員会は、外国の諸機関と連絡を取る権利を与えられた。委員会はまず、ロシア正教会モスクワ総主教ティーホンに連絡した。ティーホン総主教はすべての教会に対して、飢えた人々に救いの手を差し伸べるよう指示した。奉神礼(ほうしんれい、礼拝)に不必要な教会の聖物を売却することさえ許した。 委員会はさまざまな外国の国際機関と接触し、赤十字、クエーカー教徒、アメリカ救済委員会American Relief Administration(英語版)(A.R.A.)などが名乗り出た。A.R.A.の代表は、当時商務長官で、後に大統領となるハーバート・フーヴァーである。フーヴァーはアメリカ人捕虜の即時釈放を条件として、A.R.A.がロシアを援助すると電報を送った。援助を巡る交渉がリガで行われた。ロシア援助の全権首席にはノルウェーの探検家・政治家で、国際連盟の難民高等弁務官であるフリチョフ・ナンセンが選ばれた。1921年8月27日、ロシア共産党政府とA.R.A.の代表が「リガ協定」を結んだ。 しかし、その6日後、諸外国の支援に疑念を感じた党中央によって、全ロシア飢餓救済委員会は解散させられた。メンバーはモスクワから追放され、党の監視下に置かれた。レーニンは新聞に対して、委員会に参加していた60人のメンバーをこきおろし、嘲笑するように命じた。『飢餓をもてあそぶべきではない!』(『プラウダ』1921年8月30日)、『反革命の……救済委員会』(『イズベスチヤ』1921年8月30日)といった見出しの記事が新聞に載った。1922年の夏に、政府は、クスコーヴァらの全ロシア飢餓救済委員会に代わって、飢餓救済中央委員会(ポムゴル)を設置した。人民委員部の役人からなる非効率的な組織であった。 飢餓の援助を受け入れ、一定の活動の自由を与えることになった党指導部だが、欧米列強の義援活動に厚意以外の思惑を見た。そのため、1921年8月の中央委員会では、飢饉地帯の農民に対して、「外国人の救援はロシア農民を奴隷化するためのものだ」とするプロパガンダを行うことが秘密裏に決まった。
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