入信後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 04:35 UTC 版)
1988年12月に大師となる。青年層が多かったオウム幹部の中にあって数少ない中年であり、教祖の麻原よりも年上である。なお、麻原よりも年上の幹部信徒としては他に大内利裕や林郁夫、後述の波野村国土法事件で早川とともに逮捕された満生均史らがいる。 出家後は不動産獲得の中心的役割を担い、富士山総本部の建設責任者になり、全国の支部道場の用地取得などを行った。また1991年、山梨県上九一色村に第2サティアンを建設し、1993年にはサリンプラント建設に関与。 1990年の第39回衆議院議員総選挙で真理党が出馬した際には、早川自身は坂本弁護士一家殺害事件で疑われていたので立候補せず、対立候補のポスター剥がしなど裏方の選挙支援をしていた。また同時期に教団から逃亡した岡崎一明の3億円持ち逃げを防いだ。 麻原の指示で一級小型船舶免許を取得しており、1990年4月の石垣島セミナーでは船を操縦、海は荒れていたがなんとか乗り越えた。ベテラン船長に言わせれば普通免許取り立てでF1にでるぐらい無謀なことであったという。 1990年5月には交通事故に遭うが、事故の影響で何故か視力が上がり眼鏡がいらなくなるという体験をし、目のカルマが落ちたと考え帰依が深まった。 1994年7月に正悟師となる。
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