僧と潮汲みの老人との問答
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 02:12 UTC 版)
僧が老人に話しかけると、老人は、自分のことを「潮汲み」と名乗る。僧は、海辺でもない都で「潮汲み」というのはおかしいのではないかと問うと、老人は、河原院は融の大臣が昔塩竈の浦の景色を移してきた場所なので、「潮汲み」と言っておかしくないと答える。そのうちに月が出て、2人は唐の詩人賈島の詩句を思い出して感慨にふける。 ワキ「いかにこれなる尉殿、おん身はこのあたりの人かシテ「さん候(ぞうろう)、この所の潮汲みにて候ワキ「不思議やここは海辺(かいへん)にてもなきに、潮汲みとは誤りたるか尉殿シテ「あら何(なに)ともなや、さてここをばいづくと知ろし召されて候ふぞワキ「この所をば六条河原の院とこそ承はりて候へシテ「河原の院こそ塩竈の浦候(ぞうろ)ふよ、融の大臣(おとど)陸奥(みちのく)の千賀(ちか)の塩竈を、都のうちに移されたる海辺なれば 〽名に流れたる河原の院の、河水(かすい)をも汲め池水(ちすい)をも汲め、ここ塩竈の浦人なれば、潮汲みとなど思(おぼ)さぬぞやワキ「げにげに陸奥の千賀の塩竈を、都のうちに移されたること承はり及びて候、さてはあれなるは籬(まがき)が島候(ぞうろ)ふかシテ「さん候(ぞうろう)、あれこそ籬が島候(ぞうろ)ふよ、融の大臣常はみ舟を寄せられ、ご酒宴の遊舞(いうぶ)さまざまなりし所ぞかし、や、月こそ出(い)でて候へワキ「げにげに月の出でて候ふぞや、あの籬が島の森の梢に、鳥の宿(しゅく)し囀(さえず)りて、しもんに映る月影までも、〽こしうに返る身の上かと、思ひ出でられて候シテ「何(なに)とただいまの面前の景色がお僧のおん身に知らるるとは、もしも賈島(かとう)が言葉やらん 〽鳥は宿(しゅく)す池中(ちちう)の樹ワキ〽僧は敲(たた)く月下の門シテ〽推(お)すもワキ〽敲くもシテ〽古人の心シテ・ワキ〽いま目前(もくぜん)の秋暮(しうぼ)にあり地謡〽げにやいにしへも、月には千賀の塩竈の、月には千賀の塩竈の、浦廻(うらわ)の秋も半ばにて、松風も立つなりや、霧の籬の島隠れ、いざわれも立ち渡り、昔の跡を陸奥の、千賀の浦廻を眺めんや、千賀の浦廻を眺めん [僧]もし、そちらのご老人、あなたはこの辺りの人ですか。[老人]そうです。この土地の潮汲みです。[僧]これは不思議なこと、ここは海辺でもないのに、潮汲みというのは間違いではないか、ご老人。[老人]なんと興ざめな。それではここをどこだと思っておいでですか。[僧]ここは六条河原院と伺っています。[老人]河原院はまさに塩竈の浦なのです。融の大臣が陸奥の千賀にある塩竈の浦を都の中に移した海辺ですので、その有名な河原院でたとえ川の水を汲んでも、池の水を汲んでも、塩竈の浦人ということになるのですから、潮汲みであると思われませんか。[僧]確かに確かに、陸奥の千賀の塩竈を都の中に移されたということは聞き及んでおります。それではあそこにあるのが籬が島(塩竈の浦に浮かぶ島で、歌枕)になるのでしょうか。[老人]そうです、あれこそ籬が島です。融の大臣がいつもお舟をお寄せになって、ご酒宴の遊舞を様々楽しんでいたところです。おや、月が出てきました。[僧]本当に、月が出てきました。あの籬が島の森の梢に、鳥が止まってさえずり、柴門に落ちる月光までも、昔の秋に返るということが、我が身のことのように思われます。[老人]なんと、この眼の前の景色がお僧自身のことのように思われるとは、ひょっとして賈島の詩の言葉ではありませんか。「鳥は宿す池中の樹……」[僧]「僧は敲く月下の門」[老人](賈島が「推敲」の故事で悩んだように)「推す」とするか[僧]「敲く」とするか[老人]その古人の心が[老人・僧]いま目の前の秋暮の景色に表れている。――本当に、遠い昔のことも月のもとでは近く感じられる。千賀の塩竈の浦の秋も半ばで、松風も吹いているようだ。霧で籬が島は隠れている。さあ、私も籬が島の方に近づき、昔の跡を見、千賀の浦を眺めよう。
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