傷心とカトリック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 03:58 UTC 版)
加藤が『襤褸と宝石』の不評をその後もかなり気にしていたことは、尾崎宏次宛ての手紙からもうかがえるが、その文面で、三島の感想(東野英治郎の役の台詞がお説教みたいだったという意見)だけには納得して肯いていた。 『襤褸と宝石』の一件のあった1952年(昭和27年)の暮から、加藤はカトリックに関心を持ちはじめ、神父のもとに通っていた。加藤の実兄(加藤幸子の父)も加藤に勧められて信者となった。またこの年、故堀辰雄ゆかりの信濃追分の地にある「油屋旅館」の隣に小さな山荘を建て、12月からはそこで、アルフレッド・ド・ミュッセの『マリアンヌの気紛れ』の翻訳作業に取り組んだ。 同年には、自伝「僕の演劇遍路」を雑誌『会館芸術』に発表。1幕物の「天国泥棒」を雑誌『文藝』に発表した。ピェール・ベソン『五日目』を翻訳した。 1953年(昭和28年)11月には、『ジャン・ジロゥドゥの世界――人とその作品』を早川書房から刊行して高評価された。同月には戯曲『思ひ出を売る男』(1951年)が、やっと文学座アトリエで上演された。この戯曲は同年に河出書房刊行の『新選現代戯曲 第五巻』にも収録された。 その後、放送劇「奇妙な幕間狂言」(ラジオ東京放送)を『悲劇喜劇』に掲載。新潮社からは白井健三郎と共訳したカミュ『正義の人々』を刊行。NBCのための放送劇『泥棒と赤ん坊』を執筆し、ラジオ東京で『挿話』を放送劇化した。また、スタジオ・8・プロダクションのために『襤褸と宝石』のシナリオを執筆した。
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