併用化と被爆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 07:12 UTC 版)
その後老朽化によりこの2つの橋から鋼橋(鈑桁橋)への架け替え工事が決定、1928年(昭和3年)広島県議会にて確定、翌1929年(昭和4年)起工予定で進められていた。そこへ同年濱口内閣が発足し同時に予算緊縮方針に伴い御幸橋架替のための国庫補助金がすべて削除されることになり、予算を組んだ県の判断により着工が遅れることになった。その後方針転換され、昭和恐慌以降の景気対策の一環として補助金が下りることになった。 1931年(昭和6年)5月28日に竣工、広島市では最初の道路・軌道併用橋(幅22m、長さ162m)となった。総工事費は当時のお金で438,171円。当時は中国地方でも稀な長大橋であった。 なお、昭和初期に架けられた橋には鋼製欄干が用いられている(右写真参照)が、1945年被爆後に撮影された写真には金物が存在していない。これは太平洋戦争中に公布された金属類回収令のためである可能性が高い。 1945年8月6日の原爆被災に際しては、爆心地より約2,270mに位置しており、爆風により石造の勾欄が双方とも倒れ南側は川中に転落するなど大きな被害を受けた。しかし落橋自体は免れたため対岸の宇品方面へ避難する罹災者が橋に殺到し混乱と凄惨をきわめた。この日の午前11時頃、勤務先の中国新聞に向かっていたカメラマン・松重美人は、橋の西詰(当時南側に御幸橋交番があった)で爆心地方面から逃れ応急手当を受けていた被爆者の群集を目の当たりにして写真を撮影、これらが被爆当日の広島市街中心部を撮影したほとんど唯一の写真となった。現在、橋の西詰南側には松重により撮影された写真のモニュメントが設置されている。
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