佐竹氏
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常陸国の佐竹氏では佐竹氏四代にも及ぶ100年近く続いた佐竹の乱の最中で佐竹一門・山入氏の山入義藤・氏義父子が本家の佐竹義舜に背き、内紛が発生していた。延徳4年(1492年)に、義藤が病死すると、義舜の正室の実家である岩城氏が仲介役となり、和議が成立するが、氏義が太田城の明け渡しの条件を呑まずに再び義舜に背き、明応9年(1500年)に大山城、孫根城を攻撃し、義舜を金砂山城に追いやった。文亀2年(1502年)には氏義が金砂山城に攻め込んできて義舜は危機に陥ったが、天候の悪化をうまく活用し、撃退に成功(金砂山城の戦い)。その後、岩城氏・小野崎氏・江戸氏らの協力によって、永正元年(1504年)には常陸太田城を奪回することに成功した。永正3年(1506年)頃に山入氏を滅ぼし、家中を掌握した。その後は、独立的な動きを見せる江戸氏と同盟を結んだり、家法二十三ヶ条を制定したりと軍事力、領内支配の強化を図った。
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佐竹氏
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佐竹氏
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しかしこれらは豊臣秀吉が天正15年(1587年12月)に関東・奥州に対して発令した私戦を禁止する「惣無事令」以降のことであったため、その後の天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際、秀吉に恭順した政宗は、奪い取った蘆名領を全て没収された(宇都宮仕置・奥州仕置)。蘆名領は蒲生氏郷に与えられ、義広への返還はなされなかった。その後、秀吉から佐竹氏与力として、佐竹氏の領国に近い常陸の龍ヶ崎に4万石、次いで江戸崎に4万5,000石を与えられ、大名としての蘆名氏は一応復興した。盛重(もりしげ、「盛」は蘆名氏の通字、「重」は実父・義重の偏諱)と名乗ったのはこの時期であると言われている。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したため、連座して所領を没収された。
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