住友へ入社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 04:55 UTC 版)
正治は、内務省へ入りたいと考えていたが、体調がすぐれず高等文官試験を受ける機会を逸した。しかし内務省への気持ちに変わりなかった。当時の内務省は高文を受験しなくても帝国大学で一定の基準以上の成績を取っていれば採用され、採用の年に改めて高文の試験をうけさせる例になっていたので、大学卒業の年に内務省の採用試験を受け合格した。内務省の採用試験に合格しながら、なぜ住友にはいったか、そのいきさつは親友の田路舜哉が関係していた。田路ははじめ世話になった人の会社に就職する予定であったが、その人の事業が倒れたため卒業間際になって急遽住友に志望を変えた。正治もちょうど高文の試験を受けるのがおっくうになっていたときで、内務省か住友かでずいぶん迷った。結局田路が住友へ行くと決めたことが大きく影響し、住友入社を決断した。1920年に東京帝国大学法学部卒業後、住友総本店へ入社した翌年の2月、個人経営だった住友総本店は新しく資本金1億5千万円の住友合資会社と衣替えした。これを契機に組織変更があり、正治と田路は人事二課に配属され、労働問題を引き継ぐ。人事二課時代の大正11年5月13日、親戚の世話で結婚し、土井家に養子入りした。正治が28歳、妻多恵19歳のときである。土井家は尼崎市杭瀬の代々庄屋を勤めた旧家で、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の家臣、島清興の末裔である。その後は、住友金属工業、住友本社を経て、1942年に住友化学総務部長就任。1944年には日本染料との合併の際、交渉委員として活躍。1947年に社長、1963年に会長をそれぞれ歴任した後、1975年に相談役を務めた。1983年に経団連副会長務めるなど関西の財界で活躍し、毎日放送取締役なども務めた。小田原大造との大阪財界における「第1次南北戦争」が知られている。
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