住友に入社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:50 UTC 版)
明治11年、33歳の大阪上裁在任中、官界に失望して辞職、訪ねた叔父・広瀬宰平(住友総領事)の勧めにより1879年(明治12年)に住友に入社。3ヵ月後に本店支配人となった後も住友家から才覚を高く買われ、さまざまな役職を経験。 1880年(明治13年)に五代友厚、山本達雄らとともに私立大阪商業講習所を設置した。同所は後に府立商業学校(現、大阪市立大学)となった。 多数の公職に請われて就いたほか、大阪紡績株式会社(のちの東洋紡)の設立にも参画、役員となった。このほか、大阪商船の設立などにも参画した。 この頃、知人である堺の指吸家の子息が天龍寺で出家した縁で同派の雲水が自宅に立ち寄るようになり、由利滴水・橋本昌禎・高木台岳らと知り合い、参禅につとめる。 1890年(明治23年)第1回衆議院議員総選挙で衆議院議員に滋賀県代表として初めて当選(滋賀第3選挙区)するも、住友友親、住友友忠の相次ぐ急死により、1891年(明治24年)7月7日に衆議院議員を辞職するなど公職を全て辞して住友家の家督相続に奮闘し、徳大寺家より住友友純(西園寺公望の弟)を妹婿に迎えて15代を継がせた。
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