住友への入家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:43 UTC 版)
住友家では、1890年(明治23年)5月、別子銅山200年の祝賀式を新居浜で、次いで6月、祭典を別子山であげ、10月には大阪で祝賀会を開いたが、そのあと11月23日、住友家12代吉左衛門友親(48歳)が死去し、ついで同月30日、13代吉左衛門友忠(19歳)が没する。とりあえず12月には住友友親の母登久が14世を継ぐことになる。明治維新の混乱期を切り抜け、再建に努力してきた住友総理事広瀬宰平は、その甥で補佐の地位にあった伊庭貞剛と協力し、その後継者の選定にあたる。そして徳大寺家の一子友純に着目し、それを迎えることにする。内大臣秘書官日高秩父が侍従長 徳大寺実則の右筆の職にあり、この日高が最初この縁談を見つけ、ついで宮内省の侍医 岩佐純が宮内卿であり侍従長であった徳大寺実則と親しく、媒酌に立つことになる。伊庭貞剛は、友純の人物を調査し、三宅坂山王神社付近の旗亭に、徳大寺実則、西園寺公望、中院通規の三兄と友純を招いて、住友家の内情を詳しく説明し入家を請うた。かくて1892年(明治25年)4月18日、友純(29歳)は、長女満寿(19歳)の婿として住友登久の養嗣子となった。この直前に友純は学習院法律選科を5年生で退学している。以来大阪鰻谷(現大阪市中央区東心斎橋)の住友本邸に住むことになる。
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