伝承における生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 22:06 UTC 版)
出身については、豊前国田川郡副田庄(現在の福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説がある他、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現在の福井県福井市浄教寺町)と記されており、秘剣「燕返し」は福井にある一乗滝で身につけたとされている。生年は天正もしくは永禄年間とされる。 中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。初め、安芸国の毛利氏に仕える。武者修行のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「岩流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。 1612年(慶長17年)、宮本武蔵と「舟島」(巌流島)での決闘に敗れ、死んだ。当時の年齢は、武蔵は29歳。小次郎は『二天記』が十八歳と記しているため、現代において巌流島に建てられている決闘の像や創作では美青年と描かれているが、出生年が不明のため定かではない。武蔵よりも年上の老人であったとの見解もある。江戸時代後期の1840年代に描かれた一猛斎芳虎『九州岸柳島において宮本無三四佐々木岸柳仕合之図』でも中年のような容姿とされている。作家の浅野史拡(『真説 巌流島』著者)は、富田勢源に師事したことなどから、『二天記』の「十八歳」は他の史料を参照した際に「七八歳」を誤写した可能性を指摘している。
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