京都バス誕生後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 19:04 UTC 版)
京都バス(株)は合併前の両社からそれぞれ洛北・洛西の郊外バスとしての性格を受けついで発足し、事業規模も従業員27人、車両数14台という小規模な企業体であったが、戦後資材・燃料などの事情も好転してきたのに伴い、合併前に休止していた路線も徐々に復活していった。 戦前より旧京都市内の交通は主として市交通局の市電・市営バスが担当し、郊外路線は民間バス会社が受け持つといった形態で運行されており、利用客からは乗り換え無しに直通できる運行を希望する声が高かったので、発足当初からの課題は企業規模の拡大と市内部への進出、特に主要ターミナルへの乗り入れ実現にあった。 そこで行政官庁や関係各機関に働きかけ続けた結果、京都市との相互乗り入れ協定を締結し、1950年に雲ケ畑・上黒田・大原・途中の各線が三条京阪まで乗り入れ、続いて1952年に大原・途中の各線は四条大宮まで、1953年に嵐山方面から三条京阪、雲ケ畑・上黒田の各線も四条大宮まで乗り入れ、翌年には嵐山方面から京都駅までの乗り入れが実現した。 これにより市中心部への進出は達成されて利用客にとっての不満も解消したかに見えたが、相互乗り入れは実現したものの、既存路線から乗り入れ可能となった路線の停留所での乗り降りについて、「降車はできるが乗車できない」、逆に都心部から郊外へ向けては「乗車は自由だが降車は禁止」という、いわゆる「クローズド・ドア制」の制約を受けていた。 その後、旅客数の増加や路線の拡充延長が進むにつれて、この制約が運営面に及ぼす影響は一層強まり、完全なオープンド・ドア制の確立を目指して京都市と交渉を続けた結果、1972年に市交通局との間に待望のクローズド・ドア制撤廃に関する覚書を交換する運びとなり、永年の懸念であったオープンド・ドア制への移行がようやく実現した。 1949年ごろから好転し始めた石油事情は代燃車からガソリン車への転換を可能とし、全国的に貸切部門開設の申請が相次いたが、京都バスも1950年、新規免許申請に踏み切り、11月に一般貸切旅客自動車運送事業を営業開始した。
※この「京都バス誕生後」の解説は、「京都バス」の解説の一部です。
「京都バス誕生後」を含む「京都バス」の記事については、「京都バス」の概要を参照ください。
- 京都バス誕生後のページへのリンク