五輪目指してブラジルへ帰化・ブラジリアン柔術との出会い
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ブラジルサンパウロに戻るとエリオ・グレイシーに挑戦するが実現せず木村政彦との試合では木村のセコンドについた在ブラジル柔道家倉智光の道場に寝食の世話になる。倉智はブラジル柔道小川龍造派の柔道家だった。小野に彼の息子の小野晃の指導を頼まれ、1967年、パンアメリカン競技大会柔道男子63kg級金メダリストに育てあげる。小野に多額の謝礼をもらう。1969年、農業はあきらめ、伯国柔道連盟初代会長のアウグスト・コルデイロにブラジル柔道発展のためにブラジルに帰化してオリンピックでメダルをとらないかと薦められる。在ブラジル日本人柔道家の間では日本で柔道を学んだ者は帰化して五輪などにでてはいけないという風潮だった。しかし、倉智の薦めで帰化し柔道に打ち込む。1970年、パンアメリカン大会無差別級と93kg級で優勝。サンパウロに道場「柔道カンピオン石井」を開設。1970年頃、エリオ・グレイシーの一番弟子ペドロ・エメテリオのサンパウロにあるブラジリアン柔術道場アカデミア・デ・ペドロ・エメテリオ柔術で立ち技の指導員になる。ブラジリアン柔術はいわばブラジル柔道前田光世派の分派であった。そして前田は早稲田大学柔道部の大先輩だった。チアキも道場に名札があったのを覚えていた。エメテリオとの寝技の稽古ではチアキが日本で習った寝技は役たたず歯が立たなかった。エリオ・グレイシー率いるエメテリオを含む柔術軍と空手軍のバーリトゥード対抗戦に居合わせる。すでに60歳を越えていたエリオと空手の先生との対戦は空手の先生が逃げだして中止になるほどの柔術軍の圧勝を目撃する。チアキもリングに上がりたい衝動をうけるがノンアマチュアで世界柔道選手権大会、オリンピックなどに出られなくなるので思いとどまる。柔道に活かすべくラグビー、ボディビル、エメテリオの紹介でブラジリアン柔術家との他流試合など他のスポーツも行う。1971年までに相撲の全伯角力選手権大会でも5度優勝。1971年までに柔道五段を獲得。 1971年の世界柔道選手権大会および1972年のミュンヘンオリンピックで共に銅メダルを獲得している。2010年6月、九段に昇段。2016年、世界ベテラン柔道大会75kg級優勝。2016年リオデジャネイロオリンピックの前には聖火ランナーをつとめる。
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