乱闘に関するエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 02:51 UTC 版)
1989年5月31日の神宮球場での対阪神タイガース戦での阪神の渡辺伸彦がヤクルトのラリー・パリッシュに死球を与え乱闘騒ぎに。パリッシュ退場のわずか12分後、渡辺が今度は中西にブラッシュボールを投じたため、中西はマウンドへ突進、再び乱闘騒ぎになり、渡辺は危険投球で退場処分を受けたが、突進した中西は退場処分にならなかった。 1991年7月17日のナゴヤ球場での対中日ドラゴンズ戦で、中日の山口幸司への死球に当時一塁ベースコーチとなっていた中日の岩本好広コーチが激昂し中西を殴打。中西は岩本に直ちに掴み掛り、報復の一撃を加えた。両軍は乱闘となり、結果岩本のみ退場処分を受けた。 1994年5月11日の対読売ジャイアンツ戦で、2回表に西村龍次が巨人の村田真一の頭部に死球を当てて村田を負傷退場に追いやってしまう。続いて3回裏、今度は巨人の木田優夫が打席に立った西村の左腰付近に死球を当てて、ヤクルト監督の野村克也が「露骨な報復行為だ」と審判に抗議するも認められず、両チームに険悪な雰囲気が漂っていた。そして7回表、巨人のダン・グラッデンへの内角球がきっかけで、西村に詰め寄ろうとしたグラッデンを制止するも、キャッチャーマスクの上からグラッデンに殴られたため、中西も激昂し、キャッチャーミットでグラッデンの顔面を殴る等応戦。本塁上で激しい殴り合いになり、両軍入り乱れての大乱闘に発展した。両者共負傷したうえ暴力行為で退場処分、西村も危険投球で退場処分を受けた。グラッデンは右親指と左小指を骨折。中西は顔面を骨折、左目を打撲した。週刊ポストが「この試合後に一軍出場はなく」と報じたことが原因で、この試合が中西にとって最後の一軍出場と誤解されることがあるが、実際にはこの後も6試合のスタメン出場を果たしており、最後の一軍出場は1994年7月28日の広島東洋カープ戦での途中出場である。
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