乱れる生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 03:46 UTC 版)
「ジュディ・ガーランド」の記事における「乱れる生活」の解説
1941年に作曲家のデヴィッド・ローズと結婚した。翌年妊娠したが、当時カリフォルニア州では違法だった堕胎手術を受けている。1943年に離婚。 そしてこの頃から神経症と薬物中毒の影響が表面化し始め、撮影への遅刻や出勤拒否を繰り返すようになる。1947年に出演した『踊る海賊』の撮影では、130日余の撮影中に36日しか姿を見せていない。撮影後にはジュディ自身が「私の最初の精神病院入院」と呼ぶサナトリウムへの長期入院を余儀なくされ、自殺未遂事件を起こす。以降、度々薬物治療のための入退院を繰り返すこととなる。 1945年、映画監督のヴィンセント・ミネリと再婚。翌1946年3月、のちに女優となる娘ライザ・ミネリを出産する。ライザは2歳のとき『グッド・オールド・サマータイム(英語版)』(1949年 日本未公開)で子役として映画デビューしている。 その後も乱脈な生活と不安定な精神状態はつづき、1949年に計画されていた『ブロードウェイのバークレー夫妻(英語版)』で、撮影を放棄するなどしたため主役を降板している。同年に映画『アニーよ銃をとれ』の撮影中に錯乱状態に陥ってアニー役から下ろされてしまう。ミュージカル「アニーよ銃をとれ」の映画化「アニーよ銃をとれ」でタイトル・ロールのアニー・オークレイ役に配役された。エセル・マーマンのイメージが強いアニー役を演じることに神経質になっており、長年の子役から脱却した後に大人らしくない役を演じることに不安であり、バスビー・バークレー監督との不仲もあった。バークレーは全ての楽曲を演出しており、ガーランドの努力不足、態度、熱意に厳しかった。ルイス・B・メイヤー社長に文句を言い、バークレーを作品から解雇させようとした。この時ガーランドはうつ病で遅刻や欠席をするようになり、治療のため電気ショック療法を受けていた。。 1949年5月10日、ガーランドは降板させられ、バークレーの演出に意欲のあったベティ・ハットンが後継となった。ガーランドはマサチューセッツ州ボストンにあるピーター・ベント・ブリガム病院に長期入院し、その後しばらくして飲食も睡眠も通常通りに戻った。入院中、体の不自由な子供たちと会うことで癒しとなり、1964年のインタビューにおいて、入院中の回復について、さらには「愛の奇跡 (映画)(英語版)」(1963年)への影響について語った。
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