中島端・酒巻貞一郎
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日本においてこうした議論の先駆をなしたと思われるのが、1912年に出された中島端 の『支那分割の運命』と翌年に出された酒巻貞一郎の『支那分割論』であった。中島は著名な漢学者で中国経験も長い人物であったが、彼は中国こそがアジアにおける腐敗汚濁の病巣であると難じ、現在の戦争も郷党意識の延長に過ぎないと論じた。その上で、ロシアが満洲、イギリスがチベット、フランスが貴州・雲南から浸透する前に日本も南満州鉄道を梃子にして南満州から河北を抑え、あわよくば江蘇・浙江に進出すべきと説いた。もっとも中島自身は支那分割自体は日本の将来にとっての厄運であり、列強が分割に動いたときに乗り遅れない事に主眼を置いている。また、先に亡くなった伊藤博文の外交政策を日本の賈似道であると難じている。酒巻の説も基本的には中島と同様で、列強が分割に乗り出した際に乗り遅れることの無い様にすべきとするものであった。彼は袁世凱は皇帝の器ではなく、中国人に共和制など出来ないので孫文も失敗に終わると論じ、袁世凱・孫文・升允(蒙古系の清朝復興派指導者)による三国時代の再来の可能性を論じ、これに乗じた列強の中国侵略の可能性に言及した。
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