中世からの騎射
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 06:44 UTC 版)
平安時代から鎌倉時代にかけて騎射が中心の戦いとなったため、鎧は騎射に特化した形状に進化した「大鎧」が使われるようになった。戦では騎射による一騎討ちで戦ったと考えられているが、実際には集団戦の中で条件が整う場合にしか起こらなかった。文献では2例、『今昔物語集』では源充と平良文が騎射による一騎討ちを行ったという記述があり、『前九年合戦絵巻』に一騎討ちの直前の絵が描かれているのみである。 騎射には静止した馬上から矢を放つ場合と、馬を走らせた状態で矢を放つ場合があった。いずれの場合も基本は前方方向への騎射であり、現在の流鏑馬のように左横への騎射は一般的ではなかった。源順が編纂した『和名類聚抄』の巻四・術芸部射芸類では、馬を馳せる騎射を「馳射」と表記し、「於无毛乃以流(おおものゐる)」と訓読している。つまり、追物射であり、騎射三物の中では犬追物こそが最も実戦に近かった。絵巻においても『前九年合戦絵巻』にある源義家が敵を射た場面や、『蒙古襲来絵詞』における三井資長の騎射の場面など、前方方向に向けて矢を射る姿が描かれている。また、後方からの前方射撃への対処として「押し捻り」というパルティアンショットに似た後方射撃も使われた。 合戦時の騎射以外にも平安時代以降は騎射様式が整理された。流鏑馬・犬追物・笠懸などが成立し、神事・祭礼行事として行われはじめる。鎌倉時代には流鏑馬・犬追物・笠懸は「騎射三物」と称され各地で盛んに行われた。騎射は武芸の中でも上位のものとされ、戦場での主戦力でなくなって以降、泰平の江戸時代においても武芸としてその位置付けは変わらなかった。しかし騎乗できる者は少なく、少なくとも旗本以上で高禄の者でなければ騎乗すらも出来なかった。
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