不慮の事故・死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:05 UTC 版)
ところが1989年(平成元年)10月25日午前7時55分頃、東京都渋谷区の自宅で湯を沸かそうとした際に和服の袂にコンロの火が引火、火だるまとなり全身に大火傷を負って自宅前の道路で倒れている姿を発見され病院へと緊急搬送された。治療もむなしく翌日午前0時30分、搬送先の東京医科大学病院で大火傷による多臓器不全のため死去した。87歳没。全身の約70%にやけどを負っていたという。 粂子は1986年(昭和61年)10月にも自宅の階段で脚を踏み外して転落し、1階の床に前頭部を強打して出血をする事故を起こしたことがあった。だが、粂子は一人暮らしで仕事がオフだったため、近隣の住民に発見されたのは3日後だった。発見者の話によると、「毎朝、元気に“おはよう”って言ってくる浦辺さんが2日前から外に出てこない。変だと思って玄関を開けたら、血まみれで倒れていた」と言っている。 この一件を機に粂子は足腰が極端に弱ったため、事務所関係者の中には老人ホームへの入院を勧める人もいたが、粂子はこれを拒み続けたという。それでも事務所の粘り強い説得により週何度かは家政婦が自宅を訪れ、様子を見たり身の回りの世話をしたりする程度のことは行っていた。粂子が大火傷を負う事故に遭ったその日も午後から家政婦が訪れる予定だったという。 病院で粂子と対面した浅香光代が「顔はやけどの損傷がひどくかわいそうでした」と沈痛な面持ちで語り、「階段から落ちて大けがをした時に“私の家に来ませんか?”と勧めてみましたが、かたくなに拒否されました。一度結婚なさって別れてからは“人間生まれるときもひとり、死ぬ時もひとり”が口癖でした」と肩を落として語っている。また、清川虹子も「あれだけみんなを楽しませてくれた人が、あんな死に方をしなければいけないかと思うと、とてもつらいです」と語っている。
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