上ザルム諸家とは? わかりやすく解説

上ザルム諸家(1163年 - 1794年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/11 12:53 UTC 版)

ザルム家」の記事における「上ザルム諸家(1163年 - 1794年)」の解説

ヴォージュ山脈位置する上ザルム伯家本拠はシルメック郊外のサルム城であり、この城はストラスブール南西45キロ地点にあった伯爵領は北のストラスブール大司教領と、南のロレーヌ公国2つ大領邦に挟まれていた。上ザルム伯家15世紀分割相続経て17世紀には断絶した。上ザルム伯領の半分17世紀初頭、女伯クリスティーヌロレーヌ公フランソワ2世との結婚通じてロレーヌ公爵領に併合され残り半分近親ライン伯家(Rheingrafen)に相続された。ライン伯家の子孫もザルム伯(Graf zu Salm)の称号名乗り、以下の4つ家系分裂した。 嫡系のザルム家Salm)は、1623年帝国諸侯に列せられたが、1738年絶家した。 ザルム=ザルム家(Salm-Salm)は、当初はバドンヴィエ(現在のフランス領ムルト=エ=モゼル県)を本拠としたが、1751年にスノンヌ(現在のフランス領ヴォージュ県)に本拠移した1647年にアンホルト伯爵領およびアンホルト城(Burg Anholt)を相続し1739年帝国諸侯に列せられた。1766年ロレーヌフランス合邦によって所領フランス王国領域組み込まれ1793年にはフランス併合された。 ザルム=キルブルク家(Salm-Kyrburg)は、18世紀パリ本拠移し1742年帝国諸侯に列せられた。1794年フランス併合された。1905年最後当主貴賤結婚のために正嫡血筋絶え絶家となった。 ザルム=ホルストマル家(Salm-Horstmar)は、1816年プロイセン王国侯爵に列せられた。 ザルム=ザルム家とザルム=キルブルク家は1803年帝国代表者会議主要決議により、ミュンスター司教領Hochstift Münster)の南半分補償として割り当てられた。両家はこの補償地域共同統治国(Condominium)として、ザルム侯国(Fürstentum Salm)を創設した侯国首都はボッホルト(Bocholt)に置かれた。侯国1811年フランス併合されるまで存続した。

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