上ザルム諸家(1163年 - 1794年)
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ヴォージュ山脈に位置する上ザルム伯家の本拠はシルメック郊外のサルム城であり、この城はストラスブールの南西約45キロの地点にあった。伯爵領は北のストラスブール大司教領と、南のロレーヌ公国の2つの大領邦に挟まれていた。上ザルム伯家は15世紀の分割相続を経て、17世紀には断絶した。上ザルム伯領の半分は17世紀初頭、女伯クリスティーヌとロレーヌ公フランソワ2世との結婚を通じてロレーヌ公爵領に併合され、残り半分は近親のライン伯家(Rheingrafen)に相続された。ライン伯家の子孫もザルム伯(Graf zu Salm)の称号を名乗り、以下の4つの家系に分裂した。 嫡系のザルム家(Salm)は、1623年に帝国諸侯に列せられたが、1738年に絶家した。 ザルム=ザルム家(Salm-Salm)は、当初はバドンヴィエ(現在のフランス領ムルト=エ=モゼル県)を本拠としたが、1751年にスノンヌ(現在のフランス領ヴォージュ県)に本拠を移した。1647年にアンホルト伯爵領およびアンホルト城(Burg Anholt)を相続し、1739年に帝国諸侯に列せられた。1766年、ロレーヌとフランスの合邦によって所領がフランス王国の領域に組み込まれ、1793年にはフランスに併合された。 ザルム=キルブルク家(Salm-Kyrburg)は、18世紀にパリに本拠を移し、1742年に帝国諸侯に列せられた。1794年にフランスに併合された。1905年、最後の当主の貴賤結婚のために正嫡の血筋が絶え、絶家となった。 ザルム=ホルストマル家(Salm-Horstmar)は、1816年にプロイセン王国の侯爵に列せられた。 ザルム=ザルム家とザルム=キルブルク家は1803年の帝国代表者会議主要決議により、ミュンスター司教領(Hochstift Münster)の南半分を補償として割り当てられた。両家はこの補償地域を共同統治国(Condominium)として、ザルム侯国(Fürstentum Salm)を創設した。侯国の首都はボッホルト(Bocholt)に置かれた。侯国は1811年にフランスに併合されるまで存続した。
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