三名人の一人として
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上京当初は、「道成寺」「邯鄲」のような巧技を主体とした曲はとにかく、本格的な能ではまだ梅若実・宝生九郎に一枚劣ると見なされた伴馬であったが、東京での活動の中でさらにその芸を高めていくこととなった。 1894年(明治27年)、還暦に際して、老女物として重く扱われる「卒都婆小町」を披く。伴馬はこの舞台のために1年かけて準備を重ね、またかねて敬服していた宝生新朔に頼み込んでワキを勤めてもらい、ワキツレにその弟・宝生金五郎、大鼓・津村又喜、小鼓・三須錦吾、笛・森田初太郎、そして装束を宝生九郎に借りるなど、万全の体勢で望んだ。これはまさに伴馬会心の舞台となり、「卒都婆ほど面白いものはない」と感激して、以後決してこの曲を演ずることはなかった。 また当時、英照皇太后、昭憲皇太后、そして明治天皇と、皇室には能の愛好者が多く、伴馬も上京以来晩年まで、たびたび天覧・台覧の機会を得ることとなった。中でも、1910年(明治43年)7月、前田侯爵邸に明治天皇が行幸した際には、ぜひ伴馬の「俊寛」を観たい、と天皇からの沙汰があり、番組を変更してこれを勤めた。伴馬はその前月に九段能楽堂で、昭憲皇太后の台覧のもと「俊寛」を舞っており、その好評を受けてのことであった。当日天皇は謡本を手に終始熱心に舞台を観ており、伴馬を感激させた。 天覧能・台覧能以外でも、1898年(明治31年)4月、京都東山阿弥陀峰で催された豊国祭大能での「実盛」、1911年(明治44年)5月、京都東本願寺大師堂白州での「自然居士」などの大舞台が、いずれも好評を博した。
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