三名人の一人としてとは? わかりやすく解説

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三名人の一人として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 10:06 UTC 版)

櫻間伴馬」の記事における「三名人の一人として」の解説

上京当初は、「道成寺」「邯鄲のような巧技主体とした曲はとにかく、本格的な能ではまだ梅若実宝生九郎一枚劣ると見なされた伴馬であったが、東京での活動の中でさらにその芸を高めていくこととなった1894年明治27年)、還暦に際して老女物として重く扱われる卒都婆小町」を披く。伴馬はこの舞台のために1年かけて準備重ね、またかねて敬服していた宝生新朔に頼み込んでワキ勤めてもらい、ワキツレにその弟・宝生金五郎大鼓津村又喜、小鼓三須錦吾、笛・森田太郎、そして装束宝生九郎借りるなど、万全体勢望んだ。これはまさに伴馬会心舞台となり、「卒都婆ほど面白いものはない」と感激して以後決してこの曲を演ずることはなかった。 また当時英照皇太后昭憲皇太后、そして明治天皇と、皇室には能の愛好者多く、伴馬も上京以来晩年まで、たびたび天覧・台覧の機会を得ることとなった中でも1910年明治43年7月前田侯爵邸に明治天皇が行幸した際には、ぜひ伴馬の「俊寛」を観たい、と天皇からの沙汰があり、番組変更してこれを勤めた。伴馬はその前月九段能楽堂で、昭憲皇太后台覧のもと「俊寛」を舞っており、その好評受けてのことであった当日天皇謡本を手に終始熱心に舞台を観ており、伴馬を感激させた。 天覧能・台覧能以外でも、1898年明治31年4月京都東山阿弥陀峰で催され豊国大能での「実盛」、1911年明治44年5月京都東本願寺大師堂白州での「自然居士」などの大舞台が、いずれも好評博した

※この「三名人の一人として」の解説は、「櫻間伴馬」の解説の一部です。
「三名人の一人として」を含む「櫻間伴馬」の記事については、「櫻間伴馬」の概要を参照ください。

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