三吉工場(三吉電機工場)の設立
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「三吉正一」の記事における「三吉工場(三吉電機工場)の設立」の解説
三吉正一は周防国岩国に生まれた。家は岩国領主吉川氏に仕え、祖父は佐久間象山や勝海舟とも親交があったという。1871年(明治4年)に大阪の開城学校に入学、翌年には上京して同郷先輩宅に寄宿していたが1875年(明治8年)上州富岡製糸場の伝習生となりその技術を学ぶことになった。やがて工部省が学校を創立し、学生を募集することを知り上京して勝海舟と面会して入学の希望を伝えた。そして東京電信修技校に入学することとなり通信術を学んだ。 1877年(明治10年)工部省電信寮製機科に入り技手となる。同年の内国勧業博覧会には踏転繰糸機 を出品し褒状を受ける。 1883年(明治16年)三吉に神戸電信局転勤の辞令がおりる、しかし三吉は東京で電気技術を学びたかったため転勤を拒否したところ、懲戒免官となってしまう。そこで芝区南佐久間町(現在の港区西新橋)の自宅に工場を設え電信、電話機、電鈴等の製造販売をはじめる。これが日本初の電機製造会社三吉工場(のち三吉電機工場)の誕生であった。 転機は同郷の岩国出身である工部大学校の藤岡市助の協力を得られたことであった。三吉の電信局技手時代に勤務の傍らしていた電気機械の製作に関して藤岡から教授を受けることが多く、私的にも藤岡夫妻の媒酌人をつとめる関係であった。あるとき藤岡が設計製作した狐光燈(アーク灯)用直流直巻発電機模型を工部大学校より持ち出し、これの試作を命じられたので苦心惨憺して完成させ、次に鉱山用手回発電機(雷管爆発用)を製作した。これにより紡績工場や鉱山より小型直流発電機の注文を受けるようになった。藤岡の自宅と工場の距離は30間ほどで藤岡は学校からの帰途工場に立寄り指導をしていった。こうして藤岡が考案設計し三吉が製作するという二人三脚のもと発電機、電球等電気機器の国産化をすすめていくようになる。1886年(明治19年)藤岡は東京電燈の技師長となり営業が開始されると、三吉は東京電燈の機器の製造修理を請負うことになった。業務拡大により1887年(明治20年)芝区三田四国町(現在の港区芝五丁目)に工場を移転し三吉電機工場に改称する。
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