三吉工場の設立とは? わかりやすく解説

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三吉工場(三吉電機工場)の設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 01:15 UTC 版)

三吉正一」の記事における「三吉工場三吉電機工場)の設立」の解説

三吉正一周防国岩国生まれた。家は岩国領主吉川氏仕え祖父佐久間象山勝海舟とも親交があったという。1871年明治4年)に大阪開城学校入学翌年には上京して同郷先輩宅に寄宿していたが1875年明治8年上州富岡製糸場の伝習生となりその技術を学ぶことになった。やがて工部省学校創立し学生募集することを知り上京して勝海舟面会して入学希望伝えた。そして東京電信修技校に入学することとなり通信術を学んだ1877年明治10年工部省電信寮製機科に入り技手となる。同年内国勧業博覧会には踏転繰糸機 を出品し褒状を受ける。 1883年明治16年三吉神戸電信局転勤辞令がおりる、しかし三吉東京電気技術学びたかったため転勤拒否したところ、懲戒免官となってしまう。そこで芝区佐久間町現在の港区西新橋)の自宅工場設え電信電話機電鈴等の製造販売をはじめる。これが日本初電機製造会社三吉工場(のち三吉電機工場)の誕生であった転機同郷岩国出身である工部大学校藤岡市助協力得られたことであった三吉電信局技手時代勤務傍らしていた電機械製作に関して藤岡から教授を受けることが多く私的に藤岡夫妻媒酌人をつとめる関係であった。あるとき藤岡設計製作した光燈(アーク灯)用直流直巻発電機模型工部大学校より持ち出し、これの試作命じられたので苦心惨憺して完成させ、次に鉱山用手回発電機雷管爆発用)を製作した。これにより紡績工場鉱山より小型直流発電機注文を受けるようになった藤岡自宅工場の距離は30間ほどで藤岡学校からの帰途工場立寄り指導をしていった。こうして藤岡考案設計し三吉製作するという二人三脚のもと発電機電球電気機器国産化すすめていくようになる1886年明治19年藤岡東京電燈技師長となり営業開始されると、三吉東京電燈機器の製造修理請負うことになった業務拡大により1887年明治20年芝区三田四国町(現在の港区五丁目)に工場移転し三吉電機工場改称する

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