七尾時代
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天文8年(1539年)、能登国七尾(現・石川県七尾市)に能登国の戦国大名・畠山氏に仕える下級家臣の奥村文之丞宗道の子として生まれる。幼名を又四郎、のち帯刀と称した。幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を介して、同じ染物屋を営む長谷川宗清(宗浄)の養子となった。宗清は雪舟の弟子である等春の門人として仏画などを描き、養祖父や養父の仏画作品も現存している。等伯は等春から直接絵を習ったことはないと考えられるが、『等伯画説』の画系図では自分の師と位置づけており、信春の「春」や等伯の「等」の字は、等春から取ったものと考えられる。 等伯は10代後半頃から宗清や養祖父の無分(法淳)から絵の手ほどきを受けていたと考えられ、養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画や肖像画などを描き始めた。当時は長谷川信春と名乗っていた。現在確認されている最初期の作は、永禄7年(1564年)26歳筆の落款のあるものだが、その完成度は極めて高い。この時代の作品に、生家の菩提寺である本延寺に彩色寄進した木造『日蓮上人坐像』(1564年、本延寺蔵)、『十二天図』(1564年、正覚寺蔵)、『涅槃図』(1568年、妙成寺蔵)などがあり、現在能登を中心に石川県・富山県などで10数点が確認されている。 当時の七尾は和学でも知られる畠山義総が支配し、義総を頼って京都から公卿や歌人、連歌師、禅僧などが下向したことで「畠山文化」が開花したとされ、等伯はそのような文化的環境で育ったといわれている。等伯の作品には都でもあまり見られないほど良質の顔料が使われている。一般に仏画は平安時代が最盛期で、その後は次第に質が落ちていったとされるが、等伯の仏画はそのような中でも例外的に卓越した出来栄えをしめす。等伯は何度か京都と七尾を往復し、法華宗信仰者が多い京の町衆から絵画の技法や図様を学んでいたと考えられる。
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