七尾時代とは? わかりやすく解説

七尾時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:37 UTC 版)

長谷川等伯」の記事における「七尾時代」の解説

天文8年1539年)、能登国七尾現・石川県七尾市)に能登国戦国大名畠山氏仕え下級家臣奥村文之丞宗道の子として生まれる。幼名又四郎、のち帯刀称した幼い頃染物業を営む奥村文次という人物を介して、同じ染物屋を営む長谷川宗清(宗浄)の養子となった宗清雪舟弟子である等春の門人として仏画などを描き養祖父養父仏画作品現存している。等伯は等春から直接絵を習ったことはないと考えられるが、『等伯画説』の画系図では自分の師位置づけており、信春の「春」や等伯の「等」の字は、等春から取ったものと考えられる等伯10代後半頃から宗清養祖父の無分(法淳)から絵の手ほどきを受けていたと考えられ養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画肖像画などを描き始めた当時長谷川信春名乗っていた。現在確認されている最初期の作は、永禄7年1564年26歳筆の落款のあるものだが、その完成度極めて高い。この時代作品に、生家菩提寺である本延寺彩色寄進した木造日蓮上人坐像』(1564年本延寺)、『十二天図』(1564年正覚寺)、『涅槃図』(1568年妙成寺)などがあり、現在能登を中心に石川県富山県などで10数点が確認されている。 当時七尾和学でも知られる畠山義総支配し、義総を頼って京都から公卿歌人連歌師禅僧などが下向したことで「畠山文化」が開花したとされ、等伯そのような文化的環境育ったといわれている。等伯作品には都でもあまり見られないほど良質顔料使われている。一般に仏画平安時代最盛期で、その後次第に質が落ちていったとされるが、等伯仏画そのような中でも例外的に卓越した出来栄えをしめす。等伯何度京都七尾往復し法華宗信仰者が多い京の町衆から絵画の技法図様学んでいたと考えられる

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