一橋派による幕府・雄藩協調とは? わかりやすく解説

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一橋派による幕府・雄藩協調

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:51 UTC 版)

公武合体」の記事における「一橋派による幕府・雄藩協調」の解説

1853年嘉永6年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリー大統領国書持って来航軍艦による示威伴いつつ開国要求した当時老中首座である阿部正弘は、大名反抗もあって失敗終わった天保の改革反省もあり、薩摩藩雄藩との協調重視する方針取った阿部諸大名開国についての諮問行った上、朝廷国書受理通達したが、このどちらも前例のないことであった日米修好通商条約締結を巡る諮問では、諸大名の間では当初戦争辞さぬ強硬論もあったが、開国策を採る幕府による度重なる諮問の末、結局は大名間でも通商容認論が主流占めるに至った通商条約締結問題並行し幕府内では将軍継嗣問題を巡る政争進展していた。松平慶永越前藩主)、島津斉彬薩摩藩主)ら有力大名は自藩の政治参加求めて一橋慶喜一橋徳川家当主)の擁立を図る運動起こし雄藩協調策を採る阿部幕臣もこれを支持した一橋派)。一方幕府権威再興目指す保守派井伊直弼彦根藩主)らは徳川慶福支持した南紀派)。 阿部急死1857年安政4年))後も、老中首座堀田正睦らにより幕府雄藩協調策は不変であったが、頑迷な攘夷論であった孝明天皇条約勅許拒否したことにより、政治的に打撃を受ける。南紀派勢い得て井伊直弼大老就任する一方堀田一橋派幕臣日米修好通商条約勅許得ぬままの即時調印決断するが、将軍継嗣問題巻き返すことができず失脚した

※この「一橋派による幕府・雄藩協調」の解説は、「公武合体」の解説の一部です。
「一橋派による幕府・雄藩協調」を含む「公武合体」の記事については、「公武合体」の概要を参照ください。

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