一斉検挙から解党へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:15 UTC 版)
「第一次共産党 (日本)」の記事における「一斉検挙から解党へ」の解説
しかし、結党から1年足らずで共産党は一斉検挙を受けることになる。 佐野学の隠匿党内文書の発見に端を発して、堺利彦・荒畑寒村ら主要党員が検挙される第一次共産党事件が起きた。共産党もこの一斉検挙を事前に察知したため、佐野、高津、近藤など幹部5名を中国へ亡命させることに成功した。起訴された主要幹部は、当初は全員黙秘の方針をとっていたが、1923年(大正12年)9月の関東大震災時の亀戸事件により左派の労働運動活動家の川合義虎(共青委員長)・平澤計七らが殺害されたことで、法廷にて「宣伝」を口実に自供を開始。大審院まで争ったが1926年8月4日、起訴された29人のうち27人の有罪が確定し禁錮10ヵ月以下の刑を受けた。加えて堺・山川らを中心に共産党結党は時期尚早だったという理由で解党論が高まった。 1924年(大正13年)3月に東京府荏原郡森ヶ崎(現・東京都大田区大森南)の森ヶ崎鉱泉の温泉宿にて、佐野文夫、荒畑勝三、徳田球一、野坂参三らが会議し、党の解体が決定されると同時に、その為のビューロー(残務整理委員会)を設置(森ヶ崎会議)。この1924年2月から3月の会合にて、荒畑を除くほとんどの幹部がこの提案に同意し、「解散声明」を決議。第一次共産党はいったん解散した。 その後、コミンテルンは第5回大会に出席した佐野学・近藤栄蔵に対して党再建の指示を出し、帰国した佐野を中心に1925年夏に「再建ビューロー」が結成、これを基盤にして1926年(大正15年)12月には「第3回党大会」が開催、共産党は再建された(第二次共産党)。日本共産党再建に参加しなかった堺利彦、山川均、荒畑寒村らは、再建された共産党との論争激化後、1927年に『労農』を創刊、いわゆる労農派を形成した。
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