一揆との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:13 UTC 版)
織田家の支配力が及ばなくなった越前を一時的に支配下に収めた長繁は1月29日に領内に3箇条の禁制を掲げ支配権確立を試み、国中屋銭賦課の禁止や土民直訴の容認などを織り込んだ政策で民の支持を得ようとしたが、長繁が織田信長の前で償って越前守護と認める旨の朱印を発行してもらい、代わりに岐阜に弟を人質に差し出そうとしているという風聞が立ち、この事で一揆衆は長繁と手を切り、自らの大将に加賀国から一向宗の七里頼周を呼び担ぎ上げた。こうして富田長繁率いる土一揆は七里頼周率いる一向一揆に進展していった。 一揆勢約14万は長繁を討たんと越前の至る所で決起し、2月13日には旧朝倉土佐守館の毛屋猪介、片山館の増井甚内助らが殺害され、翌2月14日には府中の長繁も一揆勢に包囲され始めた。その内訳は府中の南からは一揆勢2万が今庄湯尾峠に陣取り、西方から駆けつけた一揆3万5,000は鯖江に布陣。北からは一揆5万が浅水から北之庄城にかけて集まり、また東より集まった一揆3万3,000は既に先鋒が日野川を挟んで府中のすぐ東に位置する帆山河原にまで進出してきていた。 窮地に立たされた長繁は「このまま一揆をのさばらせるのは無念である」と号令して突撃を命令。2月16日早朝に最も府中に近い位置に布陣していた帆山河原の一揆勢2万を日野川を渡河し強襲した。長繁の軍勢は700人余りであったが決死の覚悟のため士気は高く、帆山河原の一揆勢を打ち破った挙句潰走する敵を2、3里に渡って執拗に追撃し、2,000~3,000人余りの首を得て府中へと戻った。 この戦勝をもってにわかに勢いを盛り返した長繁は、即日中に「永代3,000石」の恩賞を約束して、府中の町衆や本願寺と対立する真宗三門徒派の合わせて6,500人以上を懐柔して味方に加えて動員を確保した。そして2月17日に長繁は北之庄城の奪取を目指し府中より出陣し、北上して鯖江を抜き一気に浅水まで進出した。これに対し七里頼周は門徒を南下させ両軍は浅水付近で激突する。増員してもなお富田軍は圧倒的に数で劣っていたが、経験に勝る富田軍が攻め立て、一揆勢の先鋒を崩壊させると、烏合の衆である一揆勢は逃走を始め、一揆は混乱のうちに四散し富田軍は勝利を収めた。
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