一揆が与えた影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)
近江天保一揆は、典型的な惣百姓型の一揆で、複数の領主・郡・村に跨る数万の農民を数名の指導者が極めて計画的に推し進めたことに最大の特色がある。一揆勢を川原に待機させる、打ち壊しは行わない等の当初計画を守れなかった点もあるが、一人の犠牲者を出すことなく目的達成後は群集を淡々と解散させたことは驚くべき事である。江戸時代を通して『検地反対』を訴えた一揆は94件に及ぶが、『近江天保一揆』は検地阻止を完全に勝ち取った唯一の一揆で、天保の改革における最重要目標の一つであった年貢増徴政策を事実上失敗に追いやった。一揆後、幕府により計画されていた日本各地の検地は中止され、幕府の財政難は明治維新まで続いた。この一揆は経済的面と面目の点で幕府衰退の遠因の一つとなった。農民が幕府政策に多大な影響を与えた事は当時としては驚愕であり、幕府威信を著しく傷つけたことは間違いない。 天保の改革は、推進者の水野忠邦の失脚によりわずか2年で中止となった。この一揆において、水口藩・膳所藩・三上藩などの在地の武士が、一揆勢を押さえなかった責任を問われて処分を受けたが、これら諸藩の武士は明らかに一揆の行動に対し同情または傍観の態度をとり、幕府の強引な検地に背を向けていた。従来であれば、一揆を抑止する立場にある武士の態度は今までに無かった行動と言える。
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