ヴァイタスコープ映画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 02:17 UTC 版)
「ヴァイタスコープ」の記事における「ヴァイタスコープ映画」の解説
キネトスコープ時代のエジソン社の作品は、映画スタジオのブラック・マリア(英語版)でダンスや曲芸などの見世物を撮影したものが多かったが、撮影機のキネトグラフは重くて持ち運びに不便なため、ブラック・マリアの外で撮影することはほとんどなかった。1896年4月のヴァイタスコープの初公開の時に最も人気を集めた作品は、ロバート・W・ポールが撮影した他社作品の『ドーヴァーの荒波』だったが、それは従来のエジソン社作品にはない屋外の情景を写した作品だった。そのためエジソン社は、ヴァイタスコープが成功するために新しく魅力的な作品を作ることが必須であることを認識した。1895年5月にカメラマンのウィリアム・ハイスは、携帯可能なポータブルカメラを使用して屋外での撮影を行い、エジソン社作品をブラック・マリアの制約から解放させた。ハイスは撮影部門の責任者であるジェームズ・H・ホワイト(英語版)と提携して、ナイアガラの滝やコニーアイランドの光景、事前に準備された2台の列車の正面衝突などを撮影した。ヴァイタスコープ用映画の多くはロケーション撮影だったが、一部作品はヴァイタスコープ社のニューヨーク事務所の屋上に建てた仮設のスタジオで撮影された。 ヴァイタスコープ用映画で最も人気を集めた作品は『M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻』だった。これは人気舞台『未亡人ジョーンズ』の一場面であるキスシーンをクローズアップで写した作品で、1896年4月中旬にその舞台の出演俳優をブラック・マリアに招いて撮影した。この作品は多くのヴォードヴィル劇場でショーの終わりに上映され、その人気は1897年まで続いた。また、新聞漫画家のジェームズ・スチュアート・ブラックトン(英語版)がエジソンの似顔絵を素早く描く様子を撮影した『世界的漫画家ブラックトンが描く発明家エジソン』(1896年)も人気があり、この作品が全米のヴォードヴィル劇場で上映されてから、主役のブラックトンはヴォードヴィルの人気スターになった。ブラックトンはこの成功で映画業界に関心を持ち、エジソン社の競合会社となるヴァイタグラフ社(英語版)の共同設立者になった。
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